中津城天守は実在したか (2)

城ファンの一考察

私が中津城があったに違いないと考えている理由を今回補足してみます。

「天守の欄干」という具体的な文献資料の存在を考える

注目したいのは、文禄2年(1593年)に亡くなった黒田家家臣の小河信章の跡を継いだ小河之行の長政あて書状です。そこには天守の欄干が腐った旨の記述があります。中津城も福岡城も江戸期には天守が存在しなかったと近年まで言われていた城ですが、「天守の欄干の腐食」という具体的で明瞭な証拠が出てまいります。一体どちらのことを指すのでしょうか。

廻り縁・欄干のある天守は織豊期の初期天守

この小河之行の書状には月日が記載されているが、年次が不明であるとのことです。中津、福岡いずれの城か、考えてみたいと思います。

まず、ありうるパターンは3つ

① 中津城には天守が有ったが、福岡城には無かった。・・・中津城天守の欄干

② 中津城には天守は無かったが、福岡城には有った。・・・・・福岡城天守の欄干

③ 中津城にも福岡城にも天守は有った・・・・書状の年次が特定できない為、どちらか判らない

私は③を考えています。そのうえで中津城のことであった可能性が高いと考えています。天守は織田信長の時代から権威の象徴、武威を示すという政治的な役割が高い建物です。よって、最上階は廻縁と高欄という武家の格式の高さを誇示する必要があった。安土城以降の城も織豊系の城郭では廻縁・高欄は受け継がれてきたと考えています。例を挙げると安土城、大阪城、広島城、聚楽第(絵図)、名護屋城(絵図)、熊本城初代天守(後の宇土櫓)、米子城初代天守(後の四重櫓)、福知山城等々。関が原以後(1600年以降)になると廻り縁・高欄のある天守は激減し、松江城、姫路城、名古屋城などがあります。廻縁部分を雨戸で覆った熊本城、小倉城、津山城、福山城の例や彦根城、亀山城のように見せかけの欄干を付けた城も現れ始めます。関ケ原前後の築城では、岡山城(1597年欄干なし)萩城(1604年頃欄干あり)のような例外はありますが、おおむね古式か新式かの目安として捉えることはできると思います。

写真は犬山城の廻り縁と高欄。建築年代は諸説あるが織豊系の武将が城主に名を連ねた歴史がある。

中津城にも福岡城にも天守に廻り縁と高欄があった可能性は否定できません。ただし、中津城のほうが年代的に関ケ原合戦前の黒田氏が初めて設けた古式の天守であることから、腐らすことがあるなら管理に不慣れな最初の中津城の方かなと思っています。

現在の中津城模擬天守は、廻り縁を鉄のフェンスで囲い高欄が撤去されたままの状態です。この昭和の天守も高欄が腐って撤去に至ったのでしょう。何やら因縁めいたものを感じませんか。