石垣の歪み問題は層塔型天守の創始には影響が限定的だったのではないかという考察

写真は平面的に見えるのでわかりにくいと思います。石垣隅部からの建物と石垣の接合部が曲線を描いているように写っています。しかも真ん中あたり外壁が少し、石垣がはみ出しています。天守台が歪みをもって築かれていることがわかると思います。
私は建築は素人で、日本の古建築の歴史には精通していません。乏しい知識から考察するに、層塔型の建物は3重程度であれば、金閣や都の安土の南蛮寺(1976年)があったようです。これは高石垣を築いてその上に建物を載せたものではありません。地面にそのまま立ち上げたもののようです。例えば天守の早例である豊臣氏大阪城や蒲生氏郷の会津若松城は大きな天守台の隅部に建てており天守台には空間を残しています。豊臣氏の大阪城などは望楼式の天守であったことは絵図から明白ですが、あの天守台からの位置関係から寄棟造りの五重天守は技術的に可能だったのではないかと思うわけです。
確かに石垣のゆがみに見切りをつけて、天守台の端いっぱいに建物を載せるのには、下部に入母屋屋根を持った望楼型が適しているのは理解できます。
もっと想像をたくましくすると、会津若松城の創建天守は大体が時代的に望楼型の五重天守の想像復元図が書籍で紹介されていましたが、天守台石垣に余地を残して建てられた層塔型五重天守の可能性はゼロではないと思うのです。案外、明治期まで残った古写真に写る天守の外観は創健時のものとほぼ同じという可能性はないのでしょうか。 (続く)