肥前名護屋城と唐津城

西海道の城

名護屋城は天下人となった豊臣秀吉が朝鮮半島へ出兵するため、肥前(佐賀県)に築いた巨大な陣城(前線基地)です。築城年は1591年(天正19年)とされており、主に九州の諸大名の力で築かれています。秀吉の死による朝鮮役の終了でその役目を終え、程なく廃城になっています。

肥前名護屋城天守台跡を本丸内部から見る。背後に海が見えますが、かつては天守に登れば素晴らしい展望が開けていたのが分かります。

唐津城は、関ケ原の合戦後東軍の寺沢広高によって江戸初期の1602年(慶長7年)から1608年(慶長13年)にかけて築城されたということが定説となっており、江戸時代を通じて唐津藩の藩庁となっています。唐津城には天守台はありますが、天守が建てられたという記録もなく、現在私たちが観ることができるのは模擬天守といわれる昭和に新造のコンクリート天守です。

名護屋城へのアクセス

名護屋城への交通手段ですが、公共交通としては鉄道が通っていないため車を使ってのアクセスになります。唐津市街からの唐津市街から名護屋城博物館への路線バスがありますので、これを利用することになります。時間を効率的に使うのであれば自家用車かレンタカーの利用がベストな選択と思います。唐津城は唐津駅から徒歩で約1.5キロ25分程度歩くことになります。

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唐津築城の新説

唐津城の築城時期の新説

唐津築城は1602年以降とされていたものが定説でしたが、近年唐津市教育委員会の発掘調査で10年以上さかのぼる可能性が指摘されています。本丸の発掘調査から、現在の石垣の内側からより古い年代の石垣や、名護屋城と同じ型で作った瓦が出土しているとのことです。これまでは、豊臣政権による名護屋城が廃城にされた後、この地を治める拠点となるべく唐津城が新たに築城され、名護屋から旧材が移転、用いられていたものと考えられていました。

新説に従い、名護屋築城と同時期に唐津城が築かれたとするなら、唐津城は豊臣政権による名護屋城の後詰の城という位置づけになりそうです。唐津は位置的には、博多から全国の大名が集まる名護屋城までの進路途中にあり、物資や人員を補給するに適した立地です。

寺沢広高は、豊臣家の奉行職を務めた人物のようで、1592年からの朝鮮攻めにおいては、名護屋城の普請と補給や兵力輸送の任の他、出征する諸将や九州大名への取次を担当し、長崎奉行となったといわれています。
1593年には名護屋城付近を含む上松浦郡一帯にて8万3000石となっており、寺沢家が朝鮮の役の功で唐津の地を手に入れたと考えられます。では、その前に築かれた唐津古城はどのような経緯で築かれたのでしょう。市の発掘調査からは、本丸部分の過去の姿が徐々に明らかになっています。本丸各所で、現在の石垣の内側から創建時と思われる古い年代の石垣が発掘されると共に、豊臣政権を象徴する金箔瓦を含む瓦が出土されています。朝鮮の役が行われたのは、1952年(天正二十年)からです。おそらくは急ごしらえの天下築城が、名護屋と唐津の地で行われたと考えられます。創建時の唐津城の記録が少ないのは寺沢家が2代で絶えたことも要因と考えられています。豊臣政権の奉行衆によって、名護屋築城とともに唐津の手伝い普請が九州の大名に命じられたのかもしれません。