年輪年代法が明らかにする創建年代
2025年11月初頭に、城郭愛好家を驚かせるニュースが飛び込んできました。これまで諸説あった松本城の天守の年代が特定されたと松本市が発表したことです。これは、柱の年輪から築造年代を算定する科学調査によるものと説明されています。近年、丸岡城や犬山城の天守の築造年代を明らかにしてきた方式です。以下、新聞やテレビで報道された発表内容を箇条書きにしてみます。
・大天守の築造年代は、文禄3(1594)年~慶長2(1597)年頃。大天守に使われていたヒノキの柱4本が、いずれも「1596年」(文禄5年・慶長元年)に伐採されたと分かった。
・大天守築造の30年ほど後に月見櫓と一緒に増築されたといわれていた、辰巳附櫓の建設時期が大天守と同じとみられること。すなわち1594年~1597年頃となる。
・乾小天守と渡櫓・大天守は同時に築造された。特に小天守と大天守の用材の違いや江戸間・京間の間取りの違いでは一概に新旧は言えず、石垣の造り(天守台)が一体なので石川数正時代と康長時代の築造の時期差は考えられない。小天守の転用財は深志城時代の材木や数正時代の櫓からの転用財と考えられる。
ということです。私は以前、松本城天守については、この報道内容とかなり違う考察をしていました。https://ukari1595sirosuki.com/matumotocastle/
それではここからは、反省点も込めて更なる疑問も含めて考察していきます。
松本城大天守の建造年度について
専門家による調査で明らかになった大天守の創建年代は、「文禄3年から慶長2年」、西暦にすると「1594年から97年にかけて」ということになりました。柱の伐採年代は1596年ということです。ということは、石川氏が大天守台の石垣造りに1594年から2年程度かけて、その後伐採したての新材で1597年頃までに天守を建ち上げたということになります。私は先の「現存12天守を行く 松本城」では、大天守について①~④までの4つの説があることを紹介しています。松本城天守はいわゆる層塔型天守に分類されていることから④の1615年(慶長15年)説を年代的に辻褄が合うと記述しました。この場合、大天守の建造は、石川氏ではなく小笠原氏ということになります。また、小天守と大天守の用材等の建築手法の違いを時代差によるものと上手く説明できると考えたからです。実際は、そうではなさそうです。また、気になる点として、石川氏の改易の理由に分不相応な城の造成があったことが幕府に咎められた事実と、それを知って、後任の小笠原氏がわざわざ新たに五重天守を築造するのか疑問を呈しています。
文禄~慶長時代に今の大天守が創建されたのなら、松本城の天守を層塔型天守と分類していいのかという問題が新たに発生してきます。これまで、城郭の書籍では層塔型天守の最古例は1610年の丹波亀山城(もしくは亀山城移築前の1604年頃の伊予今治城)と書かれていることが多かったように思います。個人的には九州で豊前小倉城も同じ頃の最古級と思っていました。松本城を層塔型天守に分類するのなら、その起源は関ケ原合戦の三年以上も年代を遡ることになります。
望楼型天守と層塔型天守を見分けるポイントは、望楼型は建物に入母屋造りの基部が存在し、その上に物見の望楼部分が載せられいること、層塔型は入母屋屋根を持たず、最下層から整然と上層が逓減していくことです。松本城は下部に大入母屋を持たないことから、層塔型天守に分類されています。ただし、一重目と二重目が同一で、本来大入母屋があれば生じる屋根裏階を二重目と三重目の間に持っていることや、最上層が廻り縁高欄式の望楼を想定(設計変更又は後改造)していたことなど、望楼型天守に近い部分も併せ持っていたことが指摘されていました。
また、古式の天守台は上部を矩形に築くことができないため、望楼型天守が成立し、その後石垣の歪みを解消できるようになってから新式の層塔型天守が旧来の望楼型天守に取って代ったと説明される場合もあるように感じますが、天守台が歪み矩形ではない松本城天守が文禄年代に計画されていたのなら、層塔型天守は望楼型天守と建築の発生年代はあまり変わらないのではないかと思ったりします。

松本城小天守の年代について
私は先の「現存12天守を行く 松本城」では、松本城小天守は古天守、すなわち松本城の初代天守が改造されたものとの説を支持していました。市はこれまで文献などを元に、1590年に城主になった石川数正と長男康長が93~94年ごろに大天守、乾小天守、渡櫓を建て、さらに辰巳附櫓と月見櫓が江戸時代前期の1633~34年ごろに建てられたと、公式見解で示していました。今回の年輪年代法と呼ばれる測定などを用いて大天守の建造時期をほぼ特定しました(1596~97年頃)が、乾小天守と渡櫓、辰巳附櫓の3棟は建物の状況から大天守と同時期に、月見櫓は年輪年代法などで、1626年ごろに2年間ほどで建てられたと認定しており、乾小天守と大天守への渡櫓が同時期のものという見解は変わっていません。
私がイメージしていたのは、次のような築城経緯です。 ①石川数正が入城し、1590年~1594年ぐらいまでに、本丸に三重四階の望楼型の天守を築いた。位置は現在の大天守の位置。 ②1615年の小笠原氏が領主になって、本丸を改造し、新たに天守台、小天守台を新たに築き直してその上に天守・小天守を載せた。小天守については石川氏時代の天守を一旦、すべて解体して柱などの材木を再利用、組みなおして層塔型の三重の小天守にした。1596年頃の初代天守を、解体して1615年に再築した。
姫路城の場合、池田輝政時代の現天守台の内に羽柴秀吉時代の天守台が発掘され、三層四階の初代天守が乾小天守他の天守曲輪用材として用いられていたことが報告されていたので、松本城もそのパターンだと想像していました。これなら年代差とか建築の仕様が異なる二つのものが同時代の石垣上に並行して存在するのも説明できると思ったからです。松本城から出土したという金箔瓦も初代の望楼型天守の遺物と思っていました。今回の年輪年代調査では、大天守のみが対象になっているようで、小天守の丸太柱などの年代は示されていません。松本城管理下のHPでは平成元年に組織された「国宝松本城築造年代懇談会」では大・小天守の柱間や用材の違いで一概に新古をいうことができないこと、石垣(天守台)の造りが一体であることから同時期のものとしたと説明を付けていただいてます。また小天守の転用材は、旧深志城や数正の築造した櫓などの転用材と説明しています。これについては、武田氏の深志城時代や数正時代に小天守に転用ができるような大きな櫓があったのか疑問もあります。
いずれにしても、年輪年代調査というのは、今後も城郭研究に大きな一石を投じてくれそうで興味深いことです。



