
旅行日最後の訪問地は淀城です。京都市伏見区にあり、最寄り駅は京阪本線の淀駅です。
伏見桃山御陵では汗だくになったため、電車の中では周囲に汗臭く嫌われてないか、気になりながら電車を下車しました。京都競馬場を背に左側(西側)に二~三〇〇メートル歩くと城址公園があります。すぐに本丸天守台に到着しますので、河川を利用した平地にある城ということを実感します。城址公園では本丸の石垣と堀を見ることができます。
淀城は、徳川氏の伏見城が廃城されることに伴う代わりとして、幕府の命で松平定綱が築いたものです。淀城は畿内の要地にあることで、稲葉氏などの譜代大名が江戸期に歴代居城していました。
タイトルが「豊臣兄弟ゆかりの名城」とありますが、歴史的には徳川幕府・譜代大名の城で豊臣氏とは関係なしと思われた方もいるでしょう。しかし、この淀城天守の変遷には豊臣秀長の大和郡山城天守が実は深く関わっているかもしれないのです。
なお、淀城は近くにもう一つあります。場所が違うこと、今の城址より古い時代のものであることから「淀古城」といわれており、豊臣秀長により改修されています。豊臣兄弟の・・・というならこちらが本来ですが、今回は行ってないので今後の訪問地にして記載していきます。
淀城天守について

淀城は、天守台が残っています。上物の天守は江戸期(1756年)に落雷で失われています。ただし、文献資料や指図などの資料には恵まれており、どのような外見であったか確認することが可能です。
残された古図や文献によれば、淀城は廃城となった伏見城の資材が転用され、天守については伏見城ではなく二条城の天守が移築されたといわれています。この移築された二条城天守は、そもそもが豊臣秀長によって整備された大和郡山城天守から移築されたものとされています。つまり大和郡山城天守の再々移築建造物であったということになります。
淀城天守の建築構成は二重の大入母屋屋根の上に三重櫓を乗せた五重五階の望楼型天守です。、外壁は白亜での塗り込めであったと見られており、『山城国淀天守之図』には、入り組んだ破風の天守と隅の張り出した二重櫓を付属する姿を確認することができます。
当初は伏見城の天守が移築される計画であり、それに合せて天守台を普請していたものの、にわかに変更があって伏見城の天守は二条城に移され、二条城の天守は淀城に移築されることになったそうです。しかし、サイズ的には二条城の天守は伏見城天守より小さく、伏見城天守に合わせて築いていた淀城天守台に比べると小さく周囲に空地ができてしまいます。その空地を埋めるために淀城は天守台の四隅に二重櫓を配して、その間を多聞櫓または多聞塀で連結しました。この周辺を取り巻く櫓を「姫路櫓」と呼んでいたそうですが、播州姫路城と似た構造から名付けられたのでしょう。

淀城天守は旧大和郡山城天守の移築か
大和郡山城天守は、天守台の案内看板によると1階部分の大きさが約16m×18m。郡山市のHPによると天守の規模は1階部分が7×8間(約13×15メートル)で、5階建ての建物であったと推定されていますと市長に紹介されています。

この天守台の説明文で気になるところがあります。「天守台の構造」で上面の広さは約16m×18mとあります。一方で天守台の発掘調査では7間・8間規模の建物が建っていたとあります。郡山城の1間幅が正確にわからないものの、180センチ位とすれば建物と石垣の端部では1間~1間半くらいの隙間が出てしまいます。天守台の年代は豊臣時代であることは、ほぼ発掘調査でも証明されているようです。いずれにしても7間・8間規模なら三重または四重天守でも不自然でなく、五重天守だったとすれば、かなり小ぶりな五重天守だったということになります。
郡山城天守は『多聞院日記』には、天正11年(1583)に「郡山城テンシユ上トテ人夫出」とあり、筒井期には建設されていたようです。慶長5年(1600)の文献にも天守が記録されていることから、この時期には天守が建っていたと考えられます。そして、江戸時代前期の建築技術書の『愚子見記』には慶長7年(1602)に郡山城天守が二条城に移築されたと記載されていることで、慶長地震の補修などがあったにせよ、郡山城天守は二条城天守を経て淀城天守に移築されたものと考えています。
筒井氏時代の天守と豊臣秀長の時代の天守は、はたして同一のものだったのでしょうか。現物が残っていない以上は推定でしかありませんが、一度解体して旧材を生かし、再築ということもあり得るのかと考えます。
淀城を訪れて、天守台を見ると、朝に見た郡山城の天守台よりも一回り大きいのが明確で、天守台廻りの空地についての話は、肯けます。天守の周辺を隅櫓で囲うという奇妙な景観を想像します。
類例としては、最近天守台の発掘がニュースになった徳川家康の駿府城天守が連想されます。淀城が1623年(元和9年)幕府の援助で築城され、天守もその時代の移築とすると、駿府城の天守構成の方が年代的に古くなります。天守台の規模や縄張りを見るとあまり関連性はなさそうです。


夕刻も迫り、少し薄暗くなってきた淀城跡を後にします。城址公園には観光客の姿もなく、遊具がぽつんと置かれた児童公園エリアが、いまでは地元の生活の一部になっている場所であることを物語っていました。