わが国で、天守建築として残されているものは12棟。うち国宝指定を受けているものが姫路・松本・松江・犬山・彦根の五つです。昭和まで残っていた広島、岡山、名古屋、福山などの諸天守は、第二次大戦下で空襲を受け焼失しています。せめて半年早く終戦判断を行っていれば、多くの人命とともに貴重な文化財も失われずに済んだのですが、とても残念です。
現存天守を訪問する最大の楽しみは、天守内部を見学できることです。内部に入ると木造建築ならではの技術や知恵を楽しむことができます。
紹介する最初の現存天守は松本城(長野県)です
松本城(長野県松本市)
松本城の概要
松本城(まつもとじょう)は、長野県(旧信濃国)の松本市ににあり、かつては深志城(ふかしじょう)といわれていました。
国宝に指定されている天守は、白亜の姫路城と対照的に黒い外観をしており、戦国時代らしい重厚な城のイメージを想起させます。古めかしい天守が好きな、相当数の城郭愛好家の心をつかんでいるようです。
松本城大天守は、諸説ありますが江戸初期に造られたものといわれ、2例しかない現存の五層天守として国宝指定を受けています。城跡も国指定史跡とされて整備されており、史跡として歴史の風情を味わえます。
松本城の歴史
松本城は信濃守護職の小笠原氏によって、16世紀の初頭ぐらいから築城されています。
16世紀の中期、天文年間は甲斐の武田信玄が信濃国に侵攻しています。当時の信濃守護・小笠原長時は信玄により追放され、武田の有力武将であった馬場信春が松本盆地の支配者として深志城に入りました。その後はこの地で信濃の村上義清、越後の長尾景虎(上杉謙信)と抗争がありますが、武田方の領国時代を過ごしてます。しかし、1582年(天正10年)になると、武田氏は織田信長によって滅ぼされ武田氏の支配は終焉を迎えます。
その後の松本の地は、再度小笠原家が支配する時期もありましたが、豊臣秀吉の時代1590年(天正18年)に石川数正が入場し、その子康長の時代までの間に、今みられるような城郭を整備したといわれています。この時に最初に建てられた天守が、現在の小天守であるとも言われています。五層の大天守は創築年代が、石川氏によるものか後の小笠原氏によるものか、議論があるようです。ただし、現在の小天守(古天守)築造後に設けられたという点は一致しています。天守に接続する辰巳附櫓と月見櫓は、第3代将軍徳川家光の治世に当時の藩主松平直正が建てたものとされています。
水堀に姿を映す美しい天守群


松本城大小天守について
乾小天守は古天守か
松本城の小天守は、文禄年間頃に石川数正又は康長によって創建された初代天守が、後年の大天守築造の際に改造されて、現在見られる姿になったといわれています。大天守と内部の柱間寸法や丸太材の使用など細部に違いがあり、そのように考えられています。実際、どの程度改造されたのでしょうか。小天守内部は現在入って観覧できません。外観から見て述べてみます。

筆者の想像する当初の松本城天守
松本城小天守の特徴は
3重4階の層塔型、1階2階は同大平面、3階が屋根裏階で3重目に4階が載っている。最上階屋根は入母屋だが、下層の屋根は寄棟である。
ここから推定できるのは、一重と二重目は同大なので望楼型天守時代の入母屋屋根の基部であることです。3階部分が屋根裏になるので、かつては存在した入母屋破風に採光用の窓が開かれている3階部分が想像され、その上に廻り縁高欄付きの4階部分が載せられた姿をイメージします。この1・2重目が入母屋基部で3重目(3・4階)が望楼部というのは犬山城が定番ですが、松本城古(小)天守はもっと細身の高さのある外観になります。

また、小天守台石垣は大天守と同じ時期に積まれたように見えます。位置も現在の天守群の中央にないので大天守台を築造した際に小天守台も北西(乾)側にずらされて建設されたのでしょうか。
(続く)