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大和郡山城と伏見桃山城を巡った日の最後に、京阪淀駅で降りました。駅から西へ歩くと、ほどなく淀城跡の石垣と堀が見えてきます。天守台に立ち、河川に囲まれた平地の城だったことを実感しました。この記事では、現地で見た遺構をたどりながら、郡山城から二条城を経て淀城へ天守が移されたという説を考えます。
淀城は、廃城となった伏見城に代わって京都を守るため1623年に徳川秀忠の命を受けた松平定綱が築き始めました。桂川・宇治川・木津川が合流していた水運の要所に位置し、のちには稲葉氏をはじめとする譜代大名の居城となりました。
近くには、豊臣秀長が1589年に修築した淀古城が別の場所にあります。私が訪ねたのは江戸幕府が築いた淀城ですが、その天守には、大和郡山城から二条城を経て移されたという説があります。ただし、移築されたのは秀長時代の天守そのものではなく、後に増田長盛が再建した二代目とする見解が示されています。淀古城はまだ訪ねていないので、今後の訪問で取り上げたいと思います。
淀城天守について

淀城は、天守台が残っています。上物の天守は江戸期(1756年)に落雷で失われています。ただし、文献資料や指図などの資料には恵まれており、どのような外見であったか確認することが可能です。
淀城の天守は、二条城から移されたと伝わります。さらに、その二条城天守がもとは大和郡山城の天守だったという移築説があります。大和郡山市が紹介する郡山城天守台の発掘調査では、建物の間取りと淀城天守の絵図との一致が報告されています。天守の現物は残っていませんが、三つの城を結ぶ興味深い説です。
淀城天守の建築構成は二重の大入母屋屋根の上に三重櫓を乗せた五重五階の望楼型天守です。外壁は白亜での塗り込めであったと見られており、『山城国淀天守之図』には、入り組んだ破風の天守と隅の張り出した二重櫓を付属する姿を確認することができます。
淀城の築城には、伏見城の建物を用いるよう命じた記録が残ります。天守は二条城から移されたと伝わり、天守台に比べて建物が小さかったため、四隅に二重櫓を配し、多聞櫓や多聞塀で繋いだとされています。四隅の櫓は「姫路櫓」とも呼ばれます。現地で広い天守台を見ると、中央の天守を櫓が囲んでいた姿を想像できます。

淀城天守は旧大和郡山城天守の移築か
大和郡山城で見た現地案内板には、天守台上の広さが約16m×18mと記されていました。一方、大和郡山市の解説では、その上に建っていた天守の一階部分は7×8間(約13m×15m)、5階建てだったと推定されています。

天守台の上面が約16m×18m、天守の1階が13m×15mだとすると、縦横それぞれに約3mの差があります。建物が中央に建っていたと仮定すれば、天守台の端まで片側約1.5mの余地があった計算です。現地で天守台を見ながら、この空間がどのように使われていたのか気になりました。ただし寸法だけで天守の正確な配置を決めることはできません。
郡山城天守は『多聞院日記』には、天正11年(1583)に「郡山城テンシユ上トテ人夫出」とあり、筒井期には建設されていたようです。慶長5年(1600)の文献にも天守が記録されていることから、この時期には天守が建っていたと考えられます。
『愚子見記』には、郡山城天守を二条城へ移したとする記述があります。また、大和郡山市が紹介する発掘調査では、郡山城天守台の建物の間取りと淀城天守の絵図が一致したと報告されています。私はこれらを、郡山城から二条城を経て淀城へ天守が移されたという説を考える手掛かりと捉えています。
筒井氏の時代から天守工事の記録がありますが、その建物と、後に淀城へ移されたとされる天守が同一だったとは限りません。大和郡山市が公開した三浦正幸氏の解説では、淀城へ移された天守は、1596年の慶長伏見地震後に増田長盛が天守台とともに再建した二代目と考えられています。秀長の時代の天守の姿は、今も明らかではありません。
淀城を訪れて、天守台を見ると、朝に見た郡山城の天守台よりも一回り大きいのが明確で、天守台廻りの空地についての話は、肯けます。天守の周辺を隅櫓で囲うという奇妙な景観を想像します。
淀城の天守台を見て、駿府城天守の構成を連想しました。近年確認された駿府城の絵図では、広い天守台の中央に天守を置き、四隅の櫓を渡櫓でつないで周囲を囲む配置が読み取れます。両城の規模や築城事情は異なりますが、天守を櫓で囲む珍しい構成は共通しています。小和田哲男氏は、駿府城のこの形式を仮に「環立式」と呼んでいます。


夕刻も迫り、少し薄暗くなってきた淀城跡を後にします。城址公園には観光客の姿もなく、遊具がぽつんと置かれた児童公園エリアが、いまでは地元の生活の一部になっている場所であることを物語っていました。
まとめ|淀城の天守台から移築の歴史を考える
淀城跡では、天守は失われていても、堀や石垣、広い天守台を実際に見ることができました。朝に訪ねた大和郡山城の天守台と見比べると、規模の違いが特に印象に残ります。郡山城から二条城を経て淀城へ天守が移されたという説もあります。現地で見た遺構と資料を照らし合わせながら考えることが、この城を歩く面白さだと感じました。
参考資料
・京都市「淀城址」
https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/hu048.html
・京都市・京都市埋蔵文化財研究所「京都歴史散策マップ 36 淀」
https://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/cmsfiles/contents/0000148/148088/36.pdf
・大和郡山市「令和8年4月定例記者会見資料」(末尾に三浦正幸氏「歴史に翻弄された郡山城天守」を掲載)
https://www.city.yamatokoriyama.lg.jp/material/files/group/1/k260421.pdf
・小和田哲男「大御所時代の駿府城天守は環立式だった」(城びと、2026年)
https://shirobito.jp/article/2117
・京都府教育委員会文化財保護課「淀城跡」
https://www.kyoto-be.ne.jp/bunkazai/cms/?p=2291


