この記事は、前回2に引き続いて、従来から様々な解釈がなされていた天守級の櫓である宇土櫓について考えてみたいと思います。今回は下記の③の説について述べていきます。
① 宇土櫓は小西行長の宇土城天守を移築したものであるという説。
② 昭和の解体修理で、①の移築は否定されたことになっていた。
③ 加藤氏時代の宇土櫓は二重二階だった。江戸時代に三重目が増築され(三重四階)その後、内部も改造されて三重五階櫓になったという説。
④ 宇土櫓は現在の大天守台に築かれた初代天守を移築したものであるという説
⑤ 宇土櫓は、隈本城時代の天守を移築したものであるという説
加藤氏時代の宇土櫓は二重二階だったのか
結論から言うと、現存している宇土櫓は最初から三重五階建築であり、城内にあった旧天守の移築であると私は考えています。ただし、創建時は現位置に現在の宇土櫓が移築される前で二重二階(又は三階)の別の櫓があった可能性はあると思います。
宇土櫓二重二階説の内容について
wikipediaでの解説は、「平成元年(1989年)の修理の際、2重目と3重目の建築方法の違いと3階部分の増設が判明している。このため当初は二層二階(地下一階)で建設され、三層四階に増築され更に三層五階に改められたとされている。(引用元 wikipedia)」とあります。また、1994年発刊の「歴史群像・名城シリーズ②熊本城(©(株)学習研究社)」では宇土櫓写真の説明に「熊本城が完成した慶長12年(1607年)ころには外観二重(層)であり「一国一城令」が発令された元和元年頃(1615年)に、高欄付きの望楼を載せて今の形の外観三重(層)になったと思われる」と記載されています。また、この書籍では「検証「熊本図」にみる加藤氏時代の天守、小天守、櫓」の稿で「熊本図」に書かれた建物群を北野隆先生が詳細に検討されており、「熊本図」の信憑性を検討された上で加藤氏時代の宇土櫓は二重であったと明言されています。



宇土櫓二重二階説に疑問のある理由
・隅櫓にしては大きすぎる1階平面
宇土櫓の一階平面は9間×8間(約18m×15m)で、これに近い規模の二重櫓は大阪城の千貫櫓くらいしか思いつきません。宇土櫓の外観上の構成を見てみると天守を含めて他の熊本城内の三重櫓と良く似た形状をしており、最初から三重の建物を想定している外観のようにしか見えないことから、当初二重で三重目を後に増築したというのは大きな違和感を感じてしまいます。
・解体修理の報告について
城郭の現存建築物はその保存と学術調査のため、解体修理が行われます。宇土櫓も例外なく江戸時代から何度も修理が繰り返されてきています。解体修理の結果で当初二重の建物の上があり、後年に望楼部を載せて3重にしたと判明したと云われていたものに犬山城天守があります。望楼の無い天守は自分が知る限り越前大野城(現在の復興天守でない絵図の物)だけだったので、これもずっと疑問に思っていたのですが、近年、年輪調査法で検証すると、ほぼ同時期に1階から望楼部の4階まで建てられていたことが判明しています。つまり最初から3重だったことが示されています。解体修理から得られた断片的な情報から、増築論が推定されるのでしょうが、解体修理報告が常に正しい結論を導かない例もあるようです。
「重要文化財熊本城宇土櫓保存修理工事報告書」(平成2年)によると修理の中で創建を直接示すものは発見できなかったが、調査の結果慶長3年~5年(1598~1600年)頃、熊本城内で創建され、慶長12年(1607年)頃に現在の位置に移築されたと推定されているそうです。(引用:熊本城復旧シンポジウム 宇土櫓を解く~解体調査成果から見える歴史~)
・絵図の信憑性について
前述の学習研究社書籍の「熊本図にみる加藤氏時代の天守、小天守、櫓」の稿で示された「臼杵市図書館蔵」の「熊本図」に書かれた建物群というのは、臼杵藩士が描いたもので、熊本城の建物の実際の位置と絵図の位置が良く照合し信用できるとされています。ただし、私が書籍の図を見る限り確かに建物位置は照合しても形の描写は簡略に表現されたイラストレベルの表現であり、五重天守を除くその他の建物は単層か多重かを分かりやすく区分けして描いたもの程度にしか見えません。すなわち、櫓は平櫓以外は全部二重で簡略に表現したのかもしれません。
また、熊本城の絵図で詳細に描いたものが江戸時代にありますが、今度は宇土櫓を外観4重に描いた作品もあったりするので、私は明治以前の絵図の外観の信憑性については、かなり懐疑的です。
・現在の宇土櫓は当初からそこにあったのか
宇土櫓が建てられている櫓台の石垣は、約25mあるそうです。この櫓台石垣の東側(小天守方向)は石垣が二段になっています。このため、宇土櫓台から小天守台辺りまでは現在でも石垣が二段になり上石垣と下石垣の間に細長い空間が存在しています。この空間は縄張り的には余り意味をなさないように考えられます。私は、このようになったのは、築城当時は25mの高石垣を延々と築いていく土木工事が困難だったからだと考えています。このため、現代の宇土櫓台は築城当初の建物ではなく、後年の改造(慶長7年頃か)により築造された石垣に移築されて載せられた建物ではないかと考えています。この場合、築城当初、現位置に別の二重櫓があった可能性はあると思います。




