小倉城の概要
豊前の国小倉は九州と本州をつなぐ要地にあり中世から城が築かれていたようです。戦国期からの近世城郭への歩みは戦国大名毛利氏の築城からで、高橋鑑種、毛利勝信の時代を経て整備され、現在の規模にしたのは細川忠興とされています。関ヶ原の合戦後に、徳川家康から豊前国へ大幅加増されて転封された細川忠興は1602年(慶長7年)頃から築城を開始し、1610年(慶長15年)頃には唐造り(南蛮造り)の層塔型天守を設けたとされています。江戸期は1632年(寛永9年)以降小笠原家が入城し幕末まで居城しています。
今回話題の唐造り天守は1632年(天保8年)に焼失し、天守を失った小倉城は、その後幕末期に、長州藩との戦いに巻き込まれて焼失し、藩政の役割を終えていきます。
明治期以降は、帝国陸軍の司令部が置かれていました。城内の石垣にも軍部による改変の後を確認することができます。現在の天守は1959年(昭和34年)に再建されたものです。
アクセスと見どころ
小倉城は、北九州市小倉北区の都心部近くにあり、比較的交通アクセスも良好です。自家用車の場合は城周りに勝山公園など駐車場が複数あります。鉄道の場合はJR西小倉駅(日豊・鹿児島本線)が最寄り駅ですが、新幹線・特急利用の時はJR小倉駅下車して小倉城口(南口)方面に出ます。駅前広場から見て右側にある人通りの多いアーケード商店街を歩いていけば、徒歩15分くらいで着きます。


食事など小倉の街並みを歩いて楽しみたいなら小倉駅下車、時間がなく、あまり歩きたくない人向けは西小倉駅下車です。


天守台石垣の水堀対岸にリバーウオークというアミューズメント商業施設があり、この建物のテラスから、ほぼ真横位置の天守を高い位置から撮影できます。また、北九州市役所庁舎も近接しており、市庁舎のビルが景観を阻害しています。破風を多く付けて再建された天守を見ると、ド派手な服装で有名な北九州の成人式も想起され、良くも悪くも各人が自己主張の強い土地柄なんだろうと考えてしまいます。
先日、北九州市を訪れた機会に小倉城に来ましたが、天守と市庁舎、商業施設との建物間距離は、どちらも200メートル無いようでした。

最古級の層塔式天守と想定される小倉城の天守台平面の大きな歪みについて

天守のような高層の城郭建築には「望楼型」「層塔型」の区分があるのはお城ファンにはおなじみです。入母屋造り屋根の御殿の上に、望楼と呼ばれる物見の上階を載せたものが天守の始まりと言われてきました。天守台石垣が正確に矩形で築けない年代は、望楼型の建築が作られ、層塔型は石垣技術の発達により、天守台が正確な矩形に築けるようになってから江戸時代に入ってから主流となっていったと説明されている印象です。
小倉城の天守は関ヶ原の合戦後に豊前国主になった細川忠興によってつくられたものです。諸記録から1610年(慶長十五年)ごろ築造されたといわれております。藤堂高虎によって層塔型天守が築かれた丹波亀山城天守とはそんなに時期が変わりません。特筆すべきは、屋根に破風を持たず、最上階がその下階より大きいことです。これは唐造り天守と呼ばれています。私が注目するのは天守台の大きさです。江戸、大坂、名古屋の天下普請の天守は、いわば国家事業で巨大なことはある意味当然ですが、小倉城の天守1階平面は15間×13間もあり、日本で4番目の規模であったことです。江戸時代の小倉城絵図を見ると、天守以外の櫓は二重のものもありますが単層櫓が多く、熊本、岡山、広島城あたりと比べると天守のみが目立って大きい、一点豪華趣味な築城であったことがわかります。
その大規模な天守を載せる天守台についてです。私は、生活圏が小倉城に近く、比較的訪問機会に恵まれていますが、気になることが一つありました。層塔型天守は基部の天守台石垣が正確に矩形に築造されないため、普及が遅れたと説明されています。
小倉城の天守台は、現地を見ると平面が歪んでいます。つまり、歪んだ天守台平面と層塔型天守の先駆けという自分の認識とのギャップです。
最近は研究も進められているようで、この問題を説明できるものとして、高松城や萩城、熊本城天守のように最下層を石垣からはみ出して立ち上げた復元図も見られます。なるほど納得!と最初は思いました。でも疑念が生じてきました。それは、石垣の平面の歪みは層塔型天守の創始にはあまり影響がなかったのではないか、ということです。

石垣の歪み問題は層塔型天守の創始には影響が限定的だったのではないかという考察

写真は立体感がなく平面的に見えるのでわかりにくいと思います。手前の石垣隅部から、建物と石垣の接合部が曲線を描いているように写っています。しかも右側真ん中あたりの外壁は少し、石垣がはみ出しています。天守台が歪みをもって築かれていることがわかると思います。
私は古建築の歴史には精通していませんが、考察するに、寄棟の層塔型といえる建物は3重程度であれば、室町期の金閣・銀閣や安土の南蛮寺(1976年)があったようです。これは高石垣を築いてその上に建物を載せたものではありません。土(石垣)で盛った基壇を持たずに、平地にそのまま立ち上げたもののようです。また、天守の早例である豊臣氏大阪城や蒲生氏郷の会津若松城は天守より一回り大きな天守台を造成し、天守はその隅部に寄せて建てており、天守台に空間を残しています。豊臣氏の大阪城などは望楼式の天守であったことは絵図から明白ですが、大きな天守台に2辺を寄せて建てれば最上階の屋根以外は寄棟にした造りの五重天守(すなわち層塔式天守)は技術的に可能だったのではなかろうかと考えたりします。
確かに石垣のゆがみに見切りをつけて、天守台の端いっぱいに建物を載せるのには、下部に入母屋屋根を持った望楼型が適しているのは理解できます。
もっと想像をたくましくすると、会津若松城の創建天守は時代的に望楼型の五重天守の想像復元図が書籍で紹介されていましたが、天守台石垣に余地を残して建てられた層塔型五重天守の可能性はゼロではないと思うのです。案外、明治期まで残った古写真に写る天守の外観は創健時のものとほぼ同じという可能性はないのでしょうか。


