佐賀県唐津市には、玄界灘を望む二つの対照的な城があります。
一つは、豊臣秀吉が朝鮮出兵の拠点として築いた肥前名護屋城。かつては巨大な天守や御殿を備え、全国から集まった大名たちの陣屋が周囲に置かれていました。現在建物は残っていませんが、本丸や天守台、各所の石垣から往時の規模を感じ取ることができます。
もう一つは、名護屋城の廃城後に寺沢広高が築いた唐津城です。現在の天守は昭和時代に建てられた模擬天守ですが、石垣の上にそびえる姿と、玄界灘と虹の松原を望む景観は唐津を代表する風景となっています。
本記事では、実際に二つの城を歩いた体験と現地で撮影した写真をもとに、城の成り立ち、石垣や天守台の見どころ、両城の違いを紹介します。
先に結論|名護屋城と唐津城は対照的な二つの城
肥前名護屋城は、豊臣秀吉が全国の大名を動員して築いた巨大な軍事拠点です。天守や御殿は失われていますが、広大な曲輪と石垣、天守台から、その規模を実感できます。
一方の唐津城は、城下町唐津の中心となった近世城郭です。現在の模擬天守からは、玄界灘や虹の松原を一望でき、歴史だけでなく景観も楽しめます。
建物を失いながら石垣が歴史を伝える名護屋城と、現在の天守が城旅の楽しさを伝える唐津城。二つを合わせて巡ることで、唐津地方における城の変遷をより深く理解できます。
肥前名護屋城と唐津城の違い
同じ唐津市にある二つの城ですが、築かれた時代や目的、天守のあり方は大きく異なります。
| 比較項目 | 肥前名護屋城 | 唐津城 |
| 築城開始 | 1591年(天正19年) | 一般には1602年(慶長7年) |
| 築城者 | 豊臣秀吉(諸大名による割普請) | 寺沢広高 |
| 主な役割 | 文禄・慶長の役の出兵拠点 | 唐津藩の政庁・城下町の中心 |
| 築城時の天守 | 五重7階とされる天守が存在 | 築城当初は天守はなし |
| 現在の姿 | 建物はなく、石垣・天守台・御殿跡が残る | 石垣上に1966年建設の模擬天守が立つ |
| 主な見どころ | 破却された石垣、本丸御殿跡、天守台、玄界灘の眺望 | 模擬天守、石垣、玄界灘と虹の松原の眺望 |
肥前名護屋城を歩く|秀吉が築いた巨大な出兵拠点
肥前名護屋城は、豊臣秀吉が文禄・慶長の役の拠点として築かせた城です。築城は1591年(天正19年)に始まり、全国の大名が工事を分担する「割普請」によって、わずか数ヶ月で完成したといわれています。
「陣城」と聞くと、戦いの間だけ使われる簡素な城を想像するかもしれません。しかし、名護屋城には大規模な石垣、広い曲輪、本丸御殿、五重七階とされる天守が設けられました。その規模は、臨時の軍事拠点という言葉だけでは収まりません。
現地を歩いて最初に感じたのは、建物が一棟も残っていないにもかかわらず、城の巨大さがはっきりと伝わってくることでした。曲輪を支える石垣を見上げると、全国の大名を動員して築かれた城の迫力を実感できます。

本丸御殿跡|秀吉の御殿があった場所
石垣をたどって本丸へ入ると、広い平坦地が現れます。現在は建物がありませんが、現地の解説板には本丸の縄張りや発掘調査の成果、かつての建物配置などが詳しく示されています。

本丸御殿跡の発掘調査では、建物の柱を支えた礎石や玉石敷きが確認されています。現在は、芝生や模擬石などを使って御殿の間取りが平面表示され、かつて建物が並んでいた範囲を現地でたどることができます。
佐賀県立名護屋城博物館によると、名護屋城跡は、豊臣秀吉の御殿跡の遺構が確認されている唯一の城跡です。建物は失われても、秀吉が実際に滞在した御殿の痕跡を確認できることは、名護屋城の大きな価値といえるでしょう。

天守台|五重七階の天守が見下ろした海
本丸の一角には、かつて巨大な天守を支えた天守台が残っています。まず外側から眺めると、天守台が本丸より一段高く築かれていることが分かり、その上に天守がそびえていた当時の姿を想像できます。


「肥前名護屋城図屏風」には五重の天守が描かれており、内部は七階、石垣上からの高さは約25~30メートルに達したと推定されています。発掘調査では、柱を支えた16か所の礎石、半地下部分にあたる穴蔵の石垣、二か所の出入り口などが確認されました。
穴蔵の床には玉石が敷き詰められていたことも分かっています。現在の天守台内部は、発掘調査をもとに土盛りや模擬石などを使って基礎部分が整備・表示され、天守の規模を現地で確認できるようになっています。

建物が失われた天守台に立って海を眺めると、この城が内陸の支配だけでなく、海の向こうを強く意識して築かれたことが実感できます。天守は、広大な城域と玄界灘を見渡す、名護屋城の象徴だったのでしょう。

石垣に残る「破却」の痕跡
名護屋城を歩いていると、石垣の上部や角の部分が大きく崩れ、積まれていた石が斜面に散乱している場所が各所で見られます。
佐賀県立名護屋城博物館によると、名護屋城は江戸時代初期に「破却」されたと考えられ、石垣も広い範囲にわたって崩されています。破却とは、城の建物や石垣などを意図的に壊し、城としての機能を失わせることです。
ただし、破却が行われた具体的な時期や過程については、現在も分かっていない部分があります。そのため、すべての崩れを破却の結果と断定するのではなく、現地に残る状態と発掘調査の成果を分けてみる必要があります。

整った石垣は、名護屋城が築かれたときの壮大さを伝えています。一方、崩された石垣は、この城が役目を終えた後の歴史を物語っています。完成した姿だけでなく、失われていった過程まで現地で感じられることも、名護屋城の大きな特徴です。
唐津城を歩く|寺沢広高が築いた海辺の城
豊臣秀吉の死後、朝鮮出兵の拠点だった名護屋城は役割を終えました。その後、唐津地方の新たな政治の中心として築かれたのが唐津城です。
唐津城は、秀吉の家臣だった寺沢広高によって、一般には1602年(慶長7年)から7年の歳月をかけて築かれたとされています。松浦川の河口に位置し、東西に伸びる松原が鶴の翼を広げたように見えることから、別名「舞鶴城」とも呼ばれています。
ここで注意したいのは、築城当初の唐津城には天守がなかったとされていることです。
現在の天守は、1966年(昭和41年)に文化観光施設として建てられた模擬天守です。
歴史的な天守を復元した建物ではありませんが、石垣上にそびえる姿は唐津の町を代表する景観となっています。天守内部の展示と最上階からの展望を含め、城旅を楽しめる見どころの多い城です。

発掘調査で浮かび上がった1602年以前の拠点
唐津城は、寺沢広高によって1602年(慶長7年)から築かれたとする説が一般的です。しかし、本丸で行われた発掘調査によって、現在の石垣よりも古い時期の石垣や、金箔を施した瓦などが確認されています。
出土した瓦の中には、肥前名護屋城で使われた瓦と同じ型で作られたとみられるものもありました。これらの発見から、現在の唐津城が築かれる以前、この場所に豊臣政権と関係する何らかの施設や拠点が存在した可能性が指摘されています。
ただし、その施設の規模や構造、誰が築いたのかについては、まだ明らかになっていません。唐津城を単に「名護屋城廃城後に築かれた城」として見るだけでなく、名護屋城が機能していた時期から唐津の地がどのような役割を担っていたのかを考える手掛かりとなる発掘成果です。
築城当初の唐津城には天守がなかった
唐津城と聞けば、現在の白い天守を思い浮かべる人が多いでしょう。しかし、唐津市の公式説明によると、寺沢広高が築いた当初の唐津城には、天守が建てられていませんでした。
現在の天守は、1966年(昭和41年)に文化観光施設として建設されたものです。かつての天守を古写真や設計図に基づいて復元した建物ではないため、本記事では「模擬天守」と表記します。
模擬天守であっても、丘の上に立つ姿は唐津の町を象徴する景観となっています。内部では唐津藩の歴史や唐津焼などが紹介され、最上階からは玄界灘、虹の松原、松浦川と城下町を見渡すことができます。
歴史的な天守の有無と、現在の建物が持つ城旅の魅力は、分けて考える必要があります。史実を正しく理解したうえで眺めると、唐津城が歩んできた歴史と、現代の観光施設として果たしている役割の両方が見えてきます。

私が唐津城の模擬天守を高く評価する理由
現在の唐津城天守は、築城当時の資料に基づいて再現された復元天守ではありません。それでも私は、その外観の完成度を高く評価しています。
五重にまとめられた外観は、下部の大きな屋根から、上部の望楼に向かって次第に小さくなり、全体に安定した姿を作っています。二重目の大入母屋破風の屋根の上に三重の望楼部を載せた構成からは、慶長期の望楼型天守を思わせる重厚さが感じられます。
最上階には、廻縁と高欄を設け、外壁には華頭窓を取り入れています。唐破風や千鳥破風も過度に増やさず、必要な場所に配置しているため、装飾過多にならず、それでいて単調にも見えません。白壁と黒い瓦、最上階の朱色の高欄も、外観を引き締めています。
史実に基づく復元天守とは異なるため、歴史的建造物として同じ尺度で評価できません。しかし、戦後に生み出された城郭風建築として見れば唐津城天守は周囲の石垣や緑、海辺の景観とよく調和しています。私の中では、富山城の城郭風建築と並ぶ、模擬天守の名作の一つです。

麓から本丸へ――石段を上って唐津城を歩く
唐津城の本丸へは、麓から石段を上って向かいます。木々に囲まれた道を進むにつれて石垣や天守が少しずつ見えてきて、平地から眺めるだけでは分からない城の高低差を実感できます。
現在の天守は後世に建てられたものですが、実際に坂や石段を歩くと、海に面した丘陵を利用して築かれた唐津城の立地が良く分かります。天守だけを見るのではなく、登城する途中の地形や石垣にも注目したいところです。

本丸へ向かう途中では、斜面を支える唐津城の石垣を間近に見ることができます。大小の石を組み合わせた石垣には、現在の天守とは異なる、城が築かれた時代の面影が感じられます。

ただし、現在みられる石垣のすべてが築城当初のまま残っているとは限りません。長い年月の間には修理や整備も行われています。それでも、石の形や積み方を観察しながら歩くことで、天守の外観だけでは分からない唐津城の歴史に触れることができます。
本丸から望む松浦川河口と唐津湾
本丸の展望所から見下ろすと、松浦川の河口と対岸の市街地が広がっています。訪問した日は遠景がガスに包まれ、唐津湾や虹の松原は霞んでいましたが、川が海へと注ぐ要害の場所に唐津城が築かれていることが分かりました。

別の方向に目を向けると、木々の間から唐津湾を望むことができます。眼下の平地と海面を見下ろす眺めからは、唐津城が海に面した小高い丘の上に築かれていることを実感できます。

まとめ|肥前名護屋城と唐津城を巡って
肥前名護屋城と唐津城は、地理的に近く歴史的にも関わりの深い城ですが、築かれた目的や果たした役割は大きく異なります。
肥前名護屋城は、豊臣秀吉による文禄・慶長の役の拠点として、全国の大名を集めて築かれた巨大城郭でした。建物は失われていますが、本丸や天守台、破却された石垣を歩くと、豊臣政権の規模と対外出兵に向けた緊張感が伝わってきます。大坂城や伏見城、聚楽第などの遺構が大きく失われた現在、秀吉が築いた城の姿を現地で実感できる貴重な場所だと思います。
一方の唐津城は、江戸時代の領国統治と城下町の中心となった城です。発掘調査からは、現在の唐津城が築かれる以前にも、豊臣政権と関係する拠点が存在した可能性が見えてきました。現在の天守は資料に基づく復元ではありませんが、石垣や周囲の緑、海辺の景観と調和した城郭風建築として、私は高く評価しています。
二つの城を続けて巡ることで、対外出兵の拠点となった肥前名護屋城と、領国統治の中心となった唐津城という、それぞれの役割の違いが明確になります。遺構を通して歴史を考える名護屋城と、城郭景観や眺望も楽しめる唐津城。両城を併せて訪れることで、この地域に残された歴史の重なりを、より深く感じることができました。
参考資料
・佐賀県立名護屋城博物館「名護屋城跡」
https://saga-museum.jp/nagoya/nagoya-castle/nagoya.html
・唐津市「唐津城の紹介」
https://www.city.karatsu.lg.jp/page/1041.html
・文化庁「唐津城跡」『文化遺産オンライン』
https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/442823
・唐津市教育委員会『唐津城跡本丸6―唐津城石垣再築整備事業報告書8(上段広場整備)』唐津市文化財調査報告書第198集、2025年
https://sitereports.nabunken.go.jp/146788
・肥前名護屋城跡および唐津城跡の現地案内板
※ウェブサイトは2026年9月18日に内容を確認しました。記事中の現地での感想や模擬天守に対する評価は、筆者自身の訪問・観察に基づくものです。


