熊本城宇土櫓はどこから移築されたのか|「第三の天守」の起源を検証

熊本城の宇土櫓と続櫓を櫓台石垣下から望む 城郭構造・歴史考察


先に結論|宇土櫓はどこから移築されたのか
宇土櫓は三重五階地下一階の建物で、その規模から熊本城の「第三の天守」とも呼ばれています。出自については、小西行長の宇土城天守を移築したとする説、現在地で新築されたとする説、二重櫓に上層を増築したとする説など、複数の見方があります。

私は、宇土櫓は当初から三重五階の天守級建築として造られ、熊本城の前身である隈本城(古城)の天守を現在地へ移築した可能性が、最も高いと考えています。ただし、移築元を直接示す決定的な資料はなく、現段階では一つの仮説です。本記事では、保存修理と解体調査の結果、建物の規模、石垣、絵図などを比較し、この仮説を検証します。

熊本地震で被災した宇土櫓と復旧調査

2016年(平成28年)4月に発生した熊本地震では、熊本城も石垣の崩落や建物の倒壊など、甚大な被害を受けました。福岡県東部の我が家でも、これまで経験したことのない揺れと地鳴りを感じ、不安を覚えた記憶が残っています。

宇土櫓は倒壊を免れたものの、五階櫓が部分的に損壊し、南側の続櫓が全壊しました。2025年9月に解体保存工事が終了し、現在は2032年度の復旧完了を目指して復旧設計が進められています。解体に伴う調査の成果は、宇土櫓の構造や成立過程を考えるうえでも重要な手掛かりになります。

熊本城と宇土櫓の位置づけ
熊本城は、加藤清正が1588年(天正16年)に肥後へ入国した後、隈本城(古城)を改修し、茶臼山に新城の築城を進めて造り上げた平山城です。新城は1607年(慶長12年)に完成したとされ、1632年(寛永9年)に細川忠利が入城した後も、細川氏によって整備と改修が続けられました。

城内には、大天守・小天守のほか、天守に匹敵する規模の五階櫓が複数建てられていました。そのうち、江戸時代から現存する唯一の五階櫓が宇土櫓です。本丸西北側の平左衛門丸に位置し、三重五階地下一階という規模から「第三の天守」とも呼ばれています。

宇土櫓とは|「第三の天守」と呼ばれる理由

宇土櫓は、本丸西北側の平左衛門丸に建てられていた五階櫓です。三重五階地下一階、高さ19メートル、一階は九間×八間という大規模な建物で、一般的な櫓を超える規模と櫓から「第三の天守」とも呼ばれています。

「宇土櫓」という名称については、かつての宇土城主だった小西行長の旧家臣を櫓の近くに置いたことに由来するという説がありますが、確定していません。建物の創築年代や成立過程にも不明な点が残り、これまで主に次のような見方が示されてきました。

1.小西行長の宇土城天守を移築したとする説

2.保存修理の調査によって、宇土城からの移築説は否定的に見られるようになったという見方

3.当初は二重の櫓で、後世に上層を増築して三重五階になったとする説

4.現在の大天守台に建てられていた初代天守を移築したという説

5.熊本城の前身である隈本城(古城)の天守を移築したとする説

以下では、保存修理と解体調査の成果、建物の構造、石垣、絵図などを手掛かりに、これらの見方を順番に検討します。

宇土城天守移築説と保存修理による見直し

宇土城天守移築説はなぜ見直されたのか
宇土櫓を、小西行長が築いた宇土城の天守を移築したものとする説は、1772年(明和9年)に森本一瑞がまとめた地誌『肥後国誌』の記述によって広く知られるようになりました。しかし、これは宇土櫓の成立から相当な年数を経た記録であり、移築を直接示す同時代の史料ではありません。

1927年(昭和2年)の大規模修理や、その後の保存修理でも、宇土城からの移築を直接裏付ける証拠は確認されませんでした。このため、宇土城天守移築説は、現在では否定的に見られています。ただし、移築しなかったことを証明する決定的な証拠が見つかったわけではなく、完全に否定されたとまでは言い切れません。

一方、1990年(平成2年)刊行の『重要文化財熊本城宇土櫓保存修理工事報告書』では、創建を直接示す資料は見つからなかったものの、1598~1600年頃に熊本城内のどこかで建てられ、1607年頃に現在地へ移された可能性が示されています。
私は、小西行長の宇土城天守を移築した可能性は低いと考えていますが、熊本城内の別の場所から移築された可能性まで否定できないと考えています。

現在の宇土城本丸跡に残る石垣。小西行長が関ケ原の戦いで敗れた後、宇土城も落城し、加藤氏のもとで大規模に改修されました。宇土市の説明によれば、現在みられる遺構は基本的に加藤氏時代のものです。このため、この石垣だけから小西時代の天守の姿や、宇土櫓の関係を判断することはできません。

加藤氏時代の宇土櫓は二重二階だったのか

私は、現在の宇土櫓の主要部分は、当初から三重五階の天守級建築として造られたと考えています。ただし、現在の宇土櫓が移築される以前に、同じ場所に二重の別の櫓が建っていた可能性は残ります。

二重二階説は何を根拠としているのか

宇土櫓の二重二階説は、1985年度から1989年度に行われた半解体修理の成果や、加藤氏時代の熊本城を描いたとされる「熊本城図」を根拠としています。二重目と三重目に建築方法の違いが見られることから、当初は二重の櫓として建てられ、後に上層が増築されたと解釈されてきました。

1994年刊行の『歴史群像・名城シリーズ②熊本城』でも、1607年頃の宇土櫓は外観二重であり、1615年頃に高欄を備えた望楼部を載せて、現在の三重の姿になったとする見方が紹介されています。

しかし、建築方法の違いがあることだけで、建物全体が二重から三重へ増築されたと断定できるわけではありません。半解体修理を担当した文化財保存計画協会は、宇土櫓について、熊本城内にあった天守を現在地へ移築したものと考えられると説明しています。したがって、二重二階説については、建物の構造や絵図、移築の可能性をあわせて検討する必要があります。

熊本地震前の宇土櫓。三重五階地下一階の建物で、一階平面は九間×八間とされます。高石垣の上に建つ大規模な姿が分かります。
熊本地震後の復元戌亥櫓。熊本城に見られる外観二重の櫓として、宇土櫓が二重二階説を考える際の比較例になります。ただし、宇土櫓とは平面規模が大きく異なります。
大阪城の千貫櫓。現存する大規模な二重櫓の一例です。宇土櫓の広い平面に二重の建物を想定した場合、どのような外観になっていたのかを考えるための比較例となります。

宇土櫓二重二階説に疑問が残る理由
・二重櫓としては大きな1階平面
宇土櫓の一階平面は9間×8間(およそ18メートル×15メートル)とされます。
これは、一般的な二重櫓と比べても大きな規模です。

また、宇土櫓は、上層に向かって建物が段階的に小さくなる外観を備えています。この構成は、熊本城の大天守や城内にあった三重櫓にも通じるものです。

こうした一階平面の規模と外観構成を合わせて考えると、宇土櫓が当初は二重二階で、後から三重目を増築したという説には、なお検討の余地が残ります。ただし、外観上の特徴だけから、当初の階数や増築の有無を断定することはできません。

解体修理の成果をどう読むか

文化財建造物の解体修理では、部材の接合方法や加工痕、修理・改造の痕跡などが詳しく調査されます。ただし、調査によって確認された事実と、それを基に組み立てられた建築過程の解釈は、分けて考える必要があります。

犬山城天守では、昭和36年(1961年)から昭和40年(1965年)まで行われた解体修理の後、下層部分と望楼部分が異なる時期に建てられたとする増築説が唱えられていました。

その後の年輪年代調査では、一階の柱から四階床の梁までに使われた木材が、天正13年から16年(1585~1588年)に伐採されたことが分かりました。この結果から、一階から四階までが一連の工事で建てられた可能性が高まっています。

これは、解体修理による調査結果そのものが誤っていたという意味ではありません。新しい調査方法や資料の発見によって、過去の調査結果に対する解釈が見直される場合があるということです。

宇土櫓についても、昭和60年(1985年)から平成元年(1989年)まで半解体修理が行われ、平成2年(1990年)に『重要文化財熊本城宇土櫓保存修理工事報告書』が刊行されました。

前節で述べたように、この調査では創建時期を直接確定できる資料は確認されず、熊本城内の別の場所で創建された後、現在地へ移された可能性が示されています。このため、現在の宇土櫓が当初は二重二階で、後から三重目を増築したという見方も、確定した事実でなく一つの説として考える必要があります。

熊本地震後の解体調査によって、新たな部材年代や改造の痕跡が明らかになるか注目されます。

絵図から外観をどこまで読み取れるか

前述した『歴史群像・名城シリーズ②熊本城』では、臼杵市図書館が所蔵する『熊本図』をもとに、加藤氏時代の天守・小天守・櫓が検討されています。この絵図は臼杵藩士が描いたものとされ、建物の配置が熊本城の遺構と良く対応している点で、重要な資料と評価されています。

一方、建物の外観は簡略化して描かれており、屋根の数や階数まで正確に表現したものかどうかは分かりません。平櫓と多重櫓を見分けやすくするため、建物を形式的に描き分けた可能性も考えられます。

したがって、『熊本図』で宇土櫓に相当する建物が二重に描かれていることだけから、当時の宇土櫓が実際に二重二階だったと断定することはできません。

また、江戸時代の別の絵図には、宇土櫓を外観四重のように描いたものもあります。絵図によって表現が異なることからも、建物の配置を確認する史料としての価値と、外観を復元する資料としての正確さは分けて考える必要があります。

絵図は、宇土櫓の歴史を考えるうえで重要な史料ですが、階数や外観を判断する際には、古文書、建物に残る痕跡、保存修理や解体修理の成果とあわせて検討する必要があります。

現在地にはもともと何が建っていたのか

宇土櫓は、平左衛門丸の高石垣の上に建っています。小天守側にあたる東側を見ると、石垣が上下二段に分かれ、その間に細長い平坦地が設けられています。

この様な石垣の構成は、築造や改修が複数の段階に分かれていた可能性を考える手掛かりになります。ただし、現在の石垣の形だけから、築造された年代や、当時そこに建っていた櫓の規模を判断することはできません。

前節で紹介した、平成2年(1990年)の保存修理工事報告書では、宇土櫓は熊本城内の別の場所で創建された後、慶長12年(1607年)頃に現在地に移された可能性が示されています。

私は、現在の宇土櫓が移築される以前、この場所には別の二重櫓が建っていた可能性があると考えています。ただし、それを直接示す古文書や建築遺構は確認されておらず、現段階では仮説に留まります。
今後の石垣と建物の解体調査によって、現在地の整備時期や、宇土櫓が移築された過程を示す新たな手掛かりが見つかることが期待されます。

北側から見た宇土櫓台。櫓台は平左衛門丸の石垣から外に張り出し、下段の石垣と連続するように築かれています。この構成から、私は宇土櫓と周辺の石垣が、後の工事で拡張された可能性を考えています。ただし写真だけから築造時期を確定することはできません。
仙台城本丸北壁の高石垣。本丸詰門の両脇には三重櫓建っていました。解体修復に伴う発掘調査では、現在見えている石垣の内部から、伊達政宗の築城期と考えられる古い石垣と、その後に築かれた石垣が発見されました。現在の高石垣は、寛文8年₍1668年)の地震で被災した石垣を修復したものと考えられています。高石垣が後世に大きく改修され、その内部に古い石垣が残ることを示す例です。

宇土櫓は大天守台から移築されたのか

平成2年(1990年)の保存修理工事報告書では、宇土櫓は、熊本城内の別の場所で創建された後、慶長12年(1607年)頃に現在地へ移築された可能性が示されています。それでは、移築前の宇土櫓は、どこに建っていたのでしょうか。

候補の一つとして考えられるのが、現在の大天守台です。大天守台に先行して建っていた三重の天守を、新たな大天守の築造伴って平左衛門丸へ移したとする説です。ただし、この移築を直接示す古文書や建築遺構は確認されていません。以下では、築城年代や建物の規模などを照らし合わせながら、この説が成り立つかを検討します。

現在の復興大天守(一の天守)。熊本城公式では「外観三重」と表記されていますが、本記事では、入母屋屋根の中間に設けられた二段の屋根庇も外観を構成する一重として捉え、五重天守とします。写真では初層が天守台石垣の天端より外側に張り出していることが分かります。

現在の大天守台と、復興大天守および宇土櫓の初層平面を比較してみます。
宇土櫓の初層    長辺9間×短辺8間
復興大天守の初層  長辺13間×短辺11間
現在の大天守台   長辺12間に短辺10間

復興大天守の初層は、天守台よりも一回り大きく、全体的に石垣の外側に張り出しています。一方、宇土櫓をこの天守台に載せた場合には、石垣上に余白が生じます。
もっとも、天守台と建物の初層平面が一致しない例はほかにもあります。豊臣大坂城の復元案や会津若松城では、天守台上に余白を残して天守が建つ姿が想定、または確認されています。

したがって、宇土櫓が天守台より小さいという一点だけで、大天守台からの移築説を否定することはできません。ただし、宇土櫓の初層は大天守より長辺で3間、短辺で2間小さく、この規模の差は移築説を検討するうえで無視できない材料です。

蒲生氏郷期の天守台上に立つ、現在の会津若松城(鶴ヶ城)復興天守。氏郷期の天守は『七重」あるいは「七層」と伝えられていますが、城郭建築史家の三浦正幸氏は、当時は「階」と「重」の使い方が混乱していたと指摘しています。そのうえで、この「七重」は地階を含む七階を意味し、建物の外観は五重だったと解釈しています。また、七重に見える古地図についても二階の腰屋根を大きく描き、さらに上部の屋根を一重多く描いた不正確な表現であり実際には五重天守を描いたものとしています(三浦正幸『図説 近世城郭の作事 天守編』原書房262頁)。私もこの解釈が妥当であると考えます。豊臣秀吉の大坂城や伏見城が五重であったことを考えても、臣下の蒲生氏郷がそれを上回る外観七重の天守を築いたとする理解には、政治的な面からも慎重な検討が必要です。この写真は、五重天守であっても天守台の全面を建物で占めず、石垣上に余白を残す例として取り上げました。

仮に熊本城旧大天守が、天守台の周囲に余白を残して建てられていたとすれば、どのような利点が考えられるでしょうか。

私は、その一つとして、建物の荷重を石垣の端部から離れた位置へ伝えやすくなることが考えられると思います。大規模な建物を石垣の端ぎりぎりに載せるより、構造上の余裕を持たせられる可能性があります。

ただし、石垣の耐震性は、石垣の勾配や内部構造、地盤、排水、石の積み方などにも左右されます。このため、石垣上の余白が耐震性を目的として設けられたとまで断定できません。熊本地震の被害は石垣の崩落が上部の建物にも大きな影響を及ぼすことを示す事例として捉えます。

震災前の本丸・北十八間櫓台と五間櫓台。写真左上には北十八間櫓と五間櫓が建ち、櫓台石垣が建物を支えていたことが分かります。
熊本地震後の北十八間櫓台と五間櫓台。石垣が大きく崩落し、その上に建っていた北十八間櫓と五間櫓も被災しました。被災前の写真と比較すると、石垣の崩落が上部建物に及ぼす影響の大きさが分かります。

熊本城公式サイトの年表によれば、加藤清正は天正18年₍1590年)に隈本城の改修に着手し、慶長4年₍1599年)には茶臼山の新城、すなわち現在の熊本城の築城に着手したと考えられています。
翌慶長5年(1600年頃)には、大天守が完成したとされています。(熊本城公式サイト「歴史」を参照。

16世紀末には、豊臣大坂城をはじめ、肥前名護屋城、伏見城、岡山城、広島城など、各地で大型の五重天守が造営されました。前述した会津若松城のように、天守台より建物を小さくし、石垣上に余白を残す例もあります。しかし、その余白が建物の荷重を石垣の端部から離す目的で設けられたかどうかは、史料からは確認できません。

熊本城の大天守台石垣は反りが大きく、隅角部にも整った算木積みが明瞭には見られないなど、古式の特徴を示しています。一方、現在の復興大天守では、初層の一部が天守台石垣の外側に張り出す構成となっています。

仮に宇土櫓の前身となる三重天守が、この大天守台に建っていたとすれば、初層平面は天守台より長辺で3間、短辺で2間小さく、石垣上にはかなりの余白が生じます。
余白があることだけで、現在地に先行建物があった可能性を否定することができません。しかし、すでに大型の五重天守を築く技術が存在した時代に、清正がこの大天守台のために、あえて小規模な三重天守を計画したと考えるには疑問が残ります。

以上から、私は、宇土櫓を現在の大天守台から移築したと考えるよりも、城域の再編によって役割を終えた旧隈本城(古城)の天守を、現在地に移したと考える方が、年代と建物規模の両面で整合的だと考えます。

ただし、この移築元を直接示す古文書や建築遺構は確認されてないため、現段階では一つの仮説です。

熊本城宇土櫓を正面から見る。外観は三重ですが、二重目と三重目に庇屋根を加えて加えて五重に展開すると、熊本城大天守と共通する外観構成が見えてきます。この類似は、宇土櫓が当初から天守級の建物として築かれ、旧隈本城の天守を移築した可能性を考える材料の一つになります。ただし、外観構成の類似だけで移築元を確定することはできません。

隈本城について

宇土櫓の移築元と考える『隈本城』とは

現在の熊本城は、周囲約5.3キロ、面積約98ヘクタールに及びます。この広大な城域には、加藤清正が築いた本城だけでなく、それ以前の千葉城と隈本城の跡も取り込まれています。

千葉城は15世紀後半、出田秀信が茶臼山東端に築いた城です。その後、鹿子木親員(寂心)が千葉城を廃し、茶臼山南西部の現在「古城」と呼ばれる場所に隈本城を築きました。築城時期は、15世紀末から16世紀初め頃とされています。

隈本城は、城氏、佐々成政へと受け継がれ、天正16年(1588年)に加藤清正が入城しました。清正は、新しい熊本城の築城に取りかかるまでの約10年間、隈本城を肥後統治の拠点としました。この間に、城郭の改修や建物の整備が行われた可能性があります。

熊本市の資料には、九州平定の際に豊臣秀吉が隈本城を「名城」と評したという伝承も紹介されています。このことから、清正の入城以前から、一定の規模と防御力を備えた城だったことがうかがえます。

一方、清正入城時の隈本城に三層の天守があったとする記述もありますが、その根拠とされる絵図を私は確認できていません

現存する宇土櫓は、破風の直線的な構成、屋根のむくり、外壁の下見板張りなど、熊本城内の他の櫓と共通する意匠を備えています。こうした特徴から私は、宇土櫓の前身建物は、加藤清正が隈本城を拠点としていた時期に新築され、その後、現在の熊本城に移築されたのではないかと考えています。

ただし、これを直接示す古文書や建築遺構は確認されておらず、現段階では一つの仮説です。

熊本城大天守の最上階から、南西の古城(隈本城)方面を望む。旧隈本城は、現在の熊本県立第一高等学校付近に位置していました。写真では、左奥の市街地方面に当たりますが、樹木や建物に遮られ、城跡そのものを明瞭に確認することはできません。

まとめ|宇土櫓は隈本城天守を移築した可能性が高い

加藤清正が隈本城に入城したのは、天正16年(1588年)です。熊本城調査研究センターの資料によれば、天正17年₍1589年)から文禄4年₍1595年)までに出された清正の書状には、石垣や堀の普請、本丸の建物、天守へ渡る橋、小天守などに関する指示が残されています。

小天守については、一階の広間に加えて二階・三階まで完成させるよう命じた書状もあり、清正時代の隈本城には、天守と三階建ての小天守が存在したと考えられています。

その後、茶臼山の新城、すなわち現在の熊本城が築かれました。新城完成後の絵図では、古城に複数の隅櫓が残されている一方、天守は描かれていません。このため、隈本城の天守は新城の完成に伴って解体され、別の場所に移されたか、処分されたと考えられます。

熊本城調査研究センターは、古城天守が新城へ移築されたとすれば、その移築先として最も可能性が高い建物に宇土櫓を挙げています。その主な理由は、次の通りです。

・宇土櫓には、慶長期までの望楼天守に見られる廻縁と高欄があること
・建築様式の年代が、宇土櫓、大天守、小天守の順に古いと考えられていること
・宇土櫓の建物が、その土台となる櫓台石垣より古いこと
・宇土櫓から古式の瓦が確認されていること

なかでも、建物と櫓台石垣の年代が一致しないことは重要です。宇土櫓下の石垣は慶長12年₍1607年)頃の技術で作られたと築かれたと考えられる一方、宇土櫓の建物は大天守より古い様式を備えています。これはすでに存在していた建物を、新たに築いた櫓台へ載せた可能性を示しています。

以上の史料、建築様式、石垣及び瓦の年代を総合すると、私は宇土櫓の前身建物が、加藤清正によって隈本城に築かれた天守であり、新しい熊本城の完成に伴って平左衛門丸へ移築された可能性が高いと考えます。
ただし。「隈本城の天守を宇土櫓として移築した」と直接記した古文書は確認されていません。したがって、現段階では複数の調査成果が一致する有力な説の一つとして位置付けられます。

手前右に立つ宇土櫓と、その櫓台石垣。奥には復興された大小天守が見えます。熊本城調査研究センターの資料では、大天守台は文禄から慶長初期、宇土櫓下の石垣は慶長中期に築かれたものと整理されています。一方宇土櫓の建物は大天守より古い様式を備えているとされます。この建物と櫓台石垣の年代差は、宇土櫓が旧隈本城から移築された可能性を考える重要な手がかりです。


主な参考資料

・熊本城調査研究センター・美濃口紀子「加藤時代の建物移設と瓦移動—古城から新城へ、支城から本城へ—」(定期講座「熊本城学」第22回、2018年)

・熊本市『重要文化財 熊本城宇土櫓保存修理工事報告書』₍1990年)

・熊本市『特別史跡 熊本城跡保存活用計画』

・三浦正幸『図説 近世城郭の作事 天守編』原書房

・学習研究社『歴史群像・名城シリーズ②熊本城』₍1994年)