福岡城天守は実在したか (1)

城ファンの一考察

この記事では、城郭マニアを熱くする話題の一つ、福岡城天守の存否について考えてみたいと思います。

福岡城について

福岡城(ふくおかじょう)は、福岡市中央区にある九州屈指の巨大城郭です。戦国時代の総決算となる関ケ原の合戦で東軍勝利の功労者であった黒田長政が、豊前中津12万石から加増され筑前国へ移封の結果、博多にほど近い丘陵地に築いた平山城です。

石高52万石の大藩である黒田氏は明治まで、この福岡城を居城としていました。別名を「舞鶴城」「石城」ともいい、周辺一帯には大濠公園もあり、現代では市民の憩いの場になっています。

城下町から発展した都市は、城跡が観光の中心になることが多いのですが、福岡市は商人の町「博多」のイメージが強いのか、福岡城の存在は一般的にあまり知られていないように思われます。もう一つ有名でないのは城郭の顔である「天守閣がない」ことが大きいといわれています。

福岡城の交通アクセスは、JR博多駅、西鉄福岡(天神)駅、福岡空港のいずれも市営地下鉄に乗り換えて、空港線「大濠公園」下車になります。

福岡空港、博多駅、天神からも地下鉄アクセスが便利です。
地下鉄「大張公園」下車で地上に出るとさっそく、福岡城水堀を目にすることになります

黒田如水(官兵衛)のイメージと福岡城

 黒田家の藩祖である黒田如水という人物は、次のようなイメージがあります。

  「深謀遠慮の人」

 これは、司馬遼太郎の小説イメージが強いからでしょうか。関ヶ原合戦の際では、あわよくば上方の情勢次第で天下を手中に狙っていたとか読んだ記憶があります。智謀の人・賢人のイメージが強く、自らの居城(築城者は黒田長政でありますが)に天守がないのは、天下取りに野心がないことを示すための如水の深謀遠慮と解されていたようです。黒田氏が豊前中津から、筑前に移封されたのは関ヶ原合戦後です。初代藩主は子の長政で、如水の一存で全てが決められることはないはずです。本丸縄張りや古文献・天守台遺構を見ても当初から天守を建造するのは、築城する際の前提だったことは間違いないようです。また、福岡移封前の中津城にも天守はあったと私は想定しているので、築城当時は福岡城に天守建造をすることを当たり前と黒田父子は考えていたのではないでしょうか。

福岡城二の丸隅櫓ですが隅櫓や櫓門の屋根に格式の高い入母屋造より切妻造りを多用しています。簡素に仕上げるのは、藩祖の如水の影響でしょうか
同じく福岡市内の寺院に移築された福岡城櫓門。屋根は切妻造りで質素です

黒田長政のイメージと福岡城

 福岡築城当時の藩主は、黒田長政です。関が原合戦の功労者で黒田家大加増の武功を立てた人物です。福岡城は本丸周りが天守(台)中心に厳重に縄張りされているように思え、天守建造については並々ならぬ意欲が感じられます。また、この人物の印象は、関ケ原での父親譲りの調略の巧みさと中津藩主時代の宇都宮氏(城井氏)との確執、筑前六端城を整備するに至った細川氏との険悪な関係、重臣後藤基次(又兵衛)の「奉公構(追放と他家仕官の禁止)」などの複雑で気難しい性格です。築城時の藩主は長政なので、父の如水より長政の考えが最終的には優先されたと考えています。

筑前六端城の一つ「松尾城」。街道沿い見晴らしの良い要衝に作られた山城で主郭は総石垣造りです
同じく六端城の一つ「鷹取城」これも見晴らしの良い山地に造られた山城で主郭部は総石垣づくりです

天守を建設しなかった理由

福岡城は長いこと、最初から天守を持たない城として認識されていた時代がありました。近年は願望も含めてあった説をとる人が増えているように感じます。私は築城開始の1601年から1620年ごろまであったと説明するのが最も自然で合理的なように思えます。それは、本丸周辺の縄張りが天守の存在抜きには考えにくいこと、天守台が穴蔵を持ち礎石が残されていることから築城間もない時期(1601年から数年間)に、具体的で明確な理由がないと取りやめることがないと思えるからです。この期間に黒田家内部や対幕府に天守建造を中止するような危機的状況を示す情報は無いように考えられます。

天守台には礎石が残り天守建築が予定されていること、形式的な飾りの天守台ではないことが理解されます。
天守台に付属した付櫓石垣。天守櫓があったとされています。
中天守台の石垣。小天守への渡り櫓で「中天守」という名称には違和感があります。
小天守台の石垣。位置的には副天守的な役割というより本丸東面防備の重要な櫓として存在しているように思えます

最近の報道や紹介記事では、天守があった説の話が多いので、次回更新では「なかった説」の検証を中心に考察してみたいと考えています。