
「天守はなかった」説から考えてみる福岡城
天守がないと主張されてきた理由を、書き出してみました。
1 徳川幕府への遠慮
2 黒田如水(官兵衛孝高)が合理的で今後の時代に天守が不要と考えていた。
3 大天守はなかったが代用天守は存在し、これを天守と呼んでいた。
4 正保三年(一六四六)福博惣図に描かれた「天守台」と「矢倉跡」の表記の違い
5 理由もなく天守を取り壊すのは大変なこと
6 天守を建てる予算がなくなり機会を逸した。
7 天守に関する具体的な口伝や伝承、記録がないこと
8 強風を受けやすい立地条件で、天守が存在したとは考えにくい
徳川幕府への遠慮と天守の不要論
立派な天守台はあるけれど、上物の建屋がない理由としては、従来一定の支持を得ていた説と覚えています。
徳川時代の大半、元和以降の年代の説明(1615年~)としては、これで良いのでしょう。しかしながら、関ケ原合戦直後の慶長年間(1600年~1615年)の諸大名の城郭ブームの中では、にわかに肯定できません。
外様の大藩として当初から天守台を持たない、仙台の伊達家や薩摩の島津家の例があります。このケースは新領国に移封した黒田長政にあてはまるでしょうか。さほど標高の高くない本丸と城下町への権威付けとして領主の威を示すシンボルタワーとして天守を築く必要性は高いように思います。慶長時代の築城創建時に新規建造されたが、幕府の権威が確立した元和年間に自ら憚って取り壊したというほうが説明としてはしっくりきます。
黒田如水は合理的な思考者で、今後の時代に天守は不要と考えていたのでしょうか。如水自身は大阪城の普請、縄張りに大きく関与したといわれています。福岡城は、築城時すでに武将として認知度の高い長政に代替わりが終わっていた時代です。長政の意向が最優先されるはずですから天守台まで作り、天守は如水の意向で取りやめというのは考えにくいのではないでしょうか。黒田如水が天下を窺う知恵者のイメージが強いため、後付けで造られた話のように思います。
次回では、「代用天守」の話に触れたいと思います。