熊本城 三の天守という宇土櫓の謎 1

城ファンの一考察

今回の考察
熊本城の〈天守と呼ばれない〉天守建築である熊本城宇土櫓の出自を考察します。少し長くなりそうなので数回に分けて記載します

はじめに
2016年4月の熊本震災から、9年の日々が経過しました。熊本で震度7の地震が連続した日以降も、大きな余震が大分方面へと波及し、福岡県東部に自宅がある我家でも過去最高の揺れと地鳴りを初めて耳にして、不安を感じた記憶が残っています。
熊本地方では、多くの家屋が罹災しましたが、その中には当然、熊本城も含まれており現在も復旧の途上にあることを城郭愛好家の方もよく存じておられると思います。今回の考察対象になっているのは熊本城宇土櫓です。熊本地震で倒壊は免れたものの傷みは激しく、解体保存工事を施工中のため現在は登閣することも見ることもできません。一日も早い復旧を待ち望んでいます。この宇土櫓は城内の隅櫓であるにしては、規模が大きく以前から成立過程に様々な説が生じていますので、自分の考えを述べてみたいと思います。

熊本城について
熊本城は、日本三名城の一つで別名を「銀杏城(ぎんなんじょう)」ともいい、熊本市の観光の中心でありシンボルです。千葉城・隈本城の二つの中世城郭を城域に取り込んで市内の茶臼山丘陵一帯に築かれた平山城です。拡張された、この城を築いたのは加藤清正で、1591年に入城し、加藤氏が1632年に改易されると、豊前小倉から細川忠利氏が熊本藩54万石を引き継ぎ明治時代に至っています。加藤清正の代から細川氏の代に至るまで改修を重ねられた熊本城は、近代になり廃藩置県後に陸軍の熊本鎮台が置かれます。この戦国時代の要塞がその実力を発揮したのは、なんと築城から約300年近くも経過した近代戦で、1877年(明治10年)の西南戦争時に薩摩のラストサムライである西郷軍の猛攻を受けています。結局、西郷軍は熊本城を攻略できず敗れていきます。

織豊期から江戸時代にかけてのいわゆる近世城郭は本丸を中心(或いは最奥部)に、二の丸・三の丸・出丸といった曲輪を段階的に配して縄張りを構成しますが、熊本城は城域の規模が広く本丸周辺にいくつかの曲輪(竹の丸・平左衛門丸・飯田丸等)を配したうえで、二の丸・三の丸を築いており、この本丸と周辺曲輪の部分を纏めて本城と呼んでいます。ここには大小天守以外に五階櫓の名称を持つ櫓が5基も(6基とも)存在していました。いずれも他城の天守級の規模を持ち、現存しているのが宇土櫓(三の天守)と呼ばれているものです。

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熊本城宇土櫓の存在について

今回考察する宇土櫓は、三重五階地下1階で高さは約19mあり、一階の平面規模も9間×8間あり現存している全国現存の三重天守の規模を凌駕しています。

宇土櫓の名の由来ですが江戸時代は「平左衛門丸五階櫓」とも呼称されてもいたようで、加藤時代に重臣加藤平左衛門の屋敷があり、宇土城主小西の旧臣を管理する施設があったことから宇土櫓と呼称されたそうです。宇土櫓は、築造年代が確定していませんが、その姿は大天守と構成が同じ破風構成になっています。しかも最上階は初期天守に定番の廻り縁と高欄を設けており、年代的な古さを想起させます。

この隅櫓にしては、特別に大きな宇土櫓は従来から様々な解釈がなされていました。

① 宇土櫓は小西行長の宇土城天守を移築したものであるという説。
② 昭和の解体修理で、①の移築は否定されたことになっていた。
③ 加藤氏時代の宇土櫓は二重二階だった。江戸時代に三重目が増築され(三重四階)その後、内部も改造されて三重五階櫓になったという説。
④ 宇土櫓は現在の大天守台に築かれた初代天守を移築したものであるという説
⑤ 宇土櫓は、隈本城時代の天守を移築したものであるという説。

これから順次、素人考察を開始してみます。 (続く)