現在残されている天守は12棟。このうち今回は福井県(越前国)の丸岡城を紹介します。現存天守を見る楽しみは、建物内部に入ることで、本物の文化財としての価値を味わうことができます。中でも、この丸岡城天守は現存最古といわれただけあって、ほとんど梯子のような急階段など体験できる城です。
丸岡城(福井県坂井市)
アクセス
北陸新幹線JR福井駅からから京福バスが出ており「丸岡城」下車。北陸新幹線JR芦原温泉駅からも京福バスが出ており「丸岡城」下車。ハピラインふくい線丸岡駅からもバスがあるようです。丸岡駅から城まで約4キロあるのでバスの乗り換えが必要です。近くに芦原温泉、永平寺、東尋坊などの観光地があるので、これらを周るなら自家用車(レンタカー)の旅が一番、利便性が高いと思います。北陸インター出口から約2キロです。
丸岡城の概要
丸岡の名前通り、福井平野の北東部に位置する丘に築かれた典型的な平山城です。丘廻りの城域は拡大されていき、周囲に五角形の内堀が廻らされていました。現在は、内堀は埋め立てられており、天守のある丘の真下に駐車場があります。天守は現存で重要文化財に指定されており、本丸周辺に石垣を見ることができます。
丸岡城の歴史
1575年(天正3年)に織田信長が、重臣の柴田勝家の甥である柴田勝豊に丸岡の所領を与え、1576年から独立丘陵の現丸岡城を築いて居城としたといわれています。現存する天守は長らくこの時に建てられたものではないかといわれていました。現在では、学術的な研究が進み否定されています。
その後、織田・豊臣・徳川と天下の主が変わるなかで、城主や石高も度々変遷し、江戸時代になると1612年(慶長17年)に福井藩に幕府から付家老として付せられた本田成重がが4万3千石で新たな城主となりました。この頃の城絵図に天守台のみ(天守なし)のものがあったそうです。
1624年(寛永元年)本多成重は福井藩から独立した大名となり丸岡藩が成立しています。現在の天守が建造されたのは、恐らくこの頃ではないでしょうか。
その後は、正保年間に、現在の城郭が整備され1695年(元禄8年)本多家の丸岡藩はお家騒動で取り潰しとなり、代わりに有馬氏が5万石で藩主となり丸岡城を居城として明治時代を迎えています。
日本最古の城でなくなった丸岡城

2019年3月 坂井市教育委員会から、「現存天守で最古」との説もあった丸岡城の天守は1576年(天正4年)の柴田勝豊によるものではなく、江戸時代の寛永年間(1624年~1644年)に建造されたものであることが発表されました。丸岡城調査研究委員会が市長に報告した学術的調査を認めたもので、天守に使われている部材について、年輪や放射性炭素濃度、酸素同位体比から年代調査を行った結果、多くは1620年代後半以降に伐採されたと結論付けた内容となっています。確かに丸岡城天守は、他の現存天守と比較しても見た目がシンプル・質素・小規模で古そうに見えていました。石瓦や野面積天守台なども、それらしく見せています。しかし、細部をみれば、望楼部が関ケ原合戦前にしては大きい(標準3間四方が4間×3間)、3階の廻り縁が見せかけで実用できない等の織豊期ではない江戸期天守の特徴が指摘されていました。

坂井市の関係者が単純に日本最古を名乗れなくなったのは、お気の毒でしたが、科学的な調査によって建物の年代を特定できたのは、建築史における文化財価値を確定し学問的な造詣を深めることになっており、負の側面よりむしろプラス要素が多かったのではないかと思います。また、丸岡市がきっかけになって科学的調査が全国城郭に普及して、建造物の年代が特定されて、それまでの誤った定説が覆されることを期待できます。最近では、犬山城天守の年輪年代調査で天守3重目の築造年代も判明し、昭和の解体修理報告書の誤りも指摘されています。名古屋城清州櫓、松本城天守なども同様の調査が行われることを期待していますが、特に期待したいのが熊本城宇土櫓です。

今の天守は何代目?
現在私たちが目にすることができる丸岡城天守は、年代が確定され学術的な調査でいろんなことが分かってきたようです。
具体的には
・屋根は石瓦ではなくて、杮葺きであったこと。
・3階の外に廻っている外縁は、後世に改造されたもので、 建築当初は腰屋根であったこと
・以前は懸魚に漆が塗られ、鯱は木製で、 金箔が押されていた。
・建築当初は石垣の内側が周囲より一段低く造成されていた可能性がある。
・現在の一直線の天守の入り口階段は、後の改造で本来は屈曲する自然石の階段があったこと。
など、坂井市の教育委員会から情報発信されています。1620年代ごろ現在の天守が建造されてから明治期まで2世紀以上の年月が経過しているので、その間必要に応じて、様々な改修が重ねられていたのが分かります。
興味深いのは、当初は三階には廻り縁が無く板葺きの腰屋根が巡っていた天守だったことです。年代的には寛永期はすでに望楼型天守の建築は少数派で層塔型天守が主流の時代となっていました。よって、不要な廻り縁を付けないのは理解できますし、板葺きであっても屋根を設けて外観的に三層天守の意匠にしたかったのでしょう。江戸時代に廻り縁高欄付きの天守に改造したため、より古めかしく見え最古の天守と思われやすくなったのは興味深い点です。また、丸岡藩のような小藩でも天守に金鯱が存在するのかということ、天守入り口はやはり単純なものではなく、何らかの防御的な工夫があったということです。
また、天守の建造年が確定したのに対して、天守台は相当に古いものであることが報告されていることも興味深い点です。
さきの報告書によれば、天守台は慶長5年以前、天正期まで遡る可能性があるとのことです。そうなると織豊期に築かれた天守台が寛永期まで半世紀くらい経ってから初めて建てられたとは考えづらく、本田氏が居城とする前に初代の丸岡城天守があったと考えるのが自然のように考えられます。江戸幕府は1615年(慶長20年・元和元年)に武家諸法度を公布して、法度時に天守を持っていなかった城での天守新造は原則禁じられてしまったようです。天守を多く持った豊臣系大名が比較的少ない東国には、天守代用の御三階(三階櫓・三重櫓)が多いのもそれが理由とされています。
丸岡城の場合は、1624年(寛永元年)本多成重が福井藩から独立した大名となった際に天守を新築したが、元々天守があった城として新築でなく再建として建造が認められたとすれば法度との整合も取れます。その際に旧来通りに再建という体裁を保つため、旧天守に外観を良く似せた時代遅れの望楼型天守を天正期の石垣の上に建てたとなれば、私たちが日本最古の現存天守かとおもっていたのも納得できます。


そして、恐らく旧天守は小田原城天守のように入り口部分に付け櫓を設けていたのではないかと想像するのです。




