豊臣兄弟ゆかりの名城を行く 和歌山城

南海道の城

訪問日 2024年8月26日晴天

今回の旅の目的地、和歌山城は、徳川御三家の一つ紀州藩の徳川家の居城のイメージが強い城です。国の史跡に指定されており、西の丸庭園など良く見どころの多い城址公園になっています。  連立式の天守群は第二次大戦による戦災で焼失しましたが、戦後コンクリートで復興され、外観は旧状を取り戻しています。

大阪市内から南海電鉄を利用し、難波駅から和歌山市駅まで乗車しました。駅前広場のバス停から和歌山城方面へ向かいます。不慣れな街で、城の降り口が分からず県庁前バス停で下車しましたが、後で城内を一周すると城の正面ではない(追廻門)ことが分かりましたので、大手口からの入場を楽しみたい方は、和歌山城前バス停か公園前西バス停で降りるバスルートを事前にチェックされることをお勧めします。

和歌山城について

 和歌山城は和歌山市内の中心部に位置しており、虎伏山という標高50mの丘に築造された平山城です。城郭の北西部には紀ノ川があり、城の防御ラインになっています。いわゆる梯郭式の平山城で、姫路城や伊予松山城と同じ連立式の天守群を持つ平山城で、城下から眺めた景観が美しく市内観光の中心になっています。

 和歌山城の見どころは、天守曲輪の建築群と、御橋廊下といわれる木造橋(復元)、この橋を渡って出入りする西の丸庭園など多くあります。他に見逃せないのが石垣です。豊臣氏や浅野氏によって整備された古い時代の石垣と、徳川時代の新しい石垣の違いが瞭然です。野面積の石垣から打込ハギ、切込ハギの石垣まで同じ城で見ることが可能で、時代の変遷による築城技術の発達を知ることができて見ごたえがあります。

天守曲輪の建築群を内部から撮影、内部はコンクリート復興ですが観覧できます。
御橋廊下の外観。木造復元されており、中を渡ることが実体験できるので貴重な体験になります。
勾配もなだらかで、高さもそれほどない野面積みの石垣。豊臣治世の古い時代に積まれたものと思われます。
同じ城の石垣にしては様相があまりに違う江戸期の松の丸櫓台の高石垣。算木積も見事な切り石と勾配で切込ハギで積まれています。

豊臣秀長による和歌山築城と紀州御三家の城へ

和歌山築城の経緯

 豊臣秀長は、1585年(天正13年)に紀州攻めに参陣し、その功によって紀伊の国は秀長の所領となりました。秀長は豊臣秀吉の命で当時は「若山」と呼ばれたこの地に築城しましたが、藤堂高虎を普請奉行に任じています。藤堂高虎は、築城名人として後世に名を残した人物です。地名はこの頃、名称を「和歌山」と改められているようです。

1586年(天正14年)には、秀長は大和郡山城に移りますが、和歌山城は配下の桑山重治に与えられています。本丸を中心にした城の中枢部はこのころに整備が終わったものと思われます。

関ケ原の合戦(1600年・慶長5年)後は、全国大名の配置換えが行われていますが、東軍方に属した浅野幸長が石高37万6千石で入城し子の長晟の代まで和歌山城の大規模な改修を行っているようです。このころに石垣も土塁から変更されて整備されているようです。

和歌山城本丸石垣

天守は1605年(慶長10年)に三層で建てられています。豊臣、桑山時代の天守は不明ですが、浅野氏時代の天守は、幕末期まで残ったことで資料(「御天守起シ御絵図」)に恵まれており、外壁が下見板張りの黒い城であったことが判明しています。この天守は1846年(弘化3年)に落雷で焼失しましたが1850年(嘉永3年)徳川紀州藩によって再建されています。

幕末期に再建された天守は下見板張りが白い塗籠に変更されていますが、ほぼ旧来の天守の外観が踏襲されて昭和までに多くの古写真に残されています。

この再建天守は1945年の戦災で失われましたが、昭和まで残ったことで資料に恵まれ、1958年鉄筋コンクリートで、旧観と同じ外観で再現されて今日に至っています。

天守曲輪内部から見る天守。昭和まで残っていた戦災天守だけにほぼ古写真どおりに復元されています。

天守の老朽化問題について

数年前、和歌山城に関するMBSのニュースを動画サイトで見る機会がありました。内容を私なりに要約すると『現在の鉄筋コンクリート天守が老朽化の危機で、耐震基準に合わない。鉄筋コンクリートの耐用年数は50~60年で、和歌山城の場合2025年現在67年!が経過している。南海トラフ地震が来れば倒壊の危険がある。名古屋城の場合は、木造再建が計画されていて、この和歌山城でも議論されているが費用が82億円見積もられている。和歌山市の財政状況の厳しさの中で税金を投入できるのか』と報じられる内容でした。

昭和のコンクリート天守の老朽化問題全体については、別稿「マニアの独り言 城郭愛好家が思う昭和の鉄筋コンクリ天守(2)」で今後述べたいと思います。 

天守には天守曲輪から小天守の玄関口から入ります。天守最下層の壁面も改めてみると材質が浮いて見えます。

遠目にも、近影でも美しい姿を見せる和歌山城天守ですが、入館料を支払い内部に入ると建物の老朽化の影響が散見されます。天守の内部画像の掲載は控えますが、古さが同じでも木造建築のそれとは違うので、近代建築のコンクリ壁・天井の染み・汚れは見ていて気持ちの良いものではありません。名古屋城や江戸城天守の木造再建が実現し、観光的な成功を得れば全国のコンクリ天守の木造再建に弾みがつくと思います。しかし、名古屋城木造天守再建は、なかなか予定通り進行していません。和歌山城の木造再建は、是非とも実現をと願いますが、実現までに長い年月がかかるかもしれないと考えています。現実的にはコンクリのまま、熊本城のように耐震補強に舵を切る可能性があるのではないかとも考えています。

そのうちいつかは伏見桃山城のように大地震の際の危険性で入館できず、遠目に天守だけを眺めるだけの日々が訪れるのかもしれないと思いつつ、天守と天守曲輪櫓群を一周して、天守欄干から城下の景観を楽しみました。

天守から見る紀の川と紀州灘方面の眺望
天守から眺める和歌山市街地方面
天守を側面から撮影。入母屋出窓の位置から天守台が矩形でない平行四辺形であることが実感されます。