熊本城 三の天守という宇土櫓の謎 4

各地の城

この記事は、前回3に引き続いて、従来から様々な解釈がなされていた天守級の櫓である宇土櫓について考えてみたいと思います。今回は下記の④の熊本城初代天守説について述べていきます。

① 宇土櫓は小西行長の宇土城天守を移築したものであるという説。
② 昭和の解体修理で、①の移築は否定されたことになっていた。
③ 加藤氏時代の宇土櫓は二重二階だった。江戸時代に三重目が増築され(三重四階)その後、内部も改造されて三重五階櫓になったという説。
④ 宇土櫓は現在の大天守台に築かれた初代天守を移築したものであるという説
⑤ 宇土櫓は、隈本城時代の天守を移築したものであるという説

宇土櫓はどこから運ばれてきたのか?

宇土櫓が、現在の宇土櫓台に創建されたものでないとすれば、いずこから移設されてきた建物なのでしょうか。
関ケ原の合戦後に肥後一国を支配するようになった加藤清正が、天守を国主にふさわしい五重にするため、大天守台の上に建てられていた三重天守を現在の位置に移設したという考え方はどうでしょうか。

現在の復興された大天守(一の天守)。天守台石垣の上に五重の建物が載せられていますが、1階は天守台石垣からはみ出しています。

現在の大天守台と、現天守及び宇土櫓の初層平面を比較してみましょう。
宇土櫓の1階平面  長辺9間に短辺8間
現大天守1階平面  長辺13間に短辺11間
現在の天守台平面  長辺12間に短辺10間
天守台を基準に考えると大天守は大きすぎ、宇土櫓は小さすぎることになります。
天守台平面が建物1階より大きいと、石垣上には余分な空地ができます。例としては豊臣秀吉の大阪城、蒲生氏郷の会津若松城があります。

蒲生氏郷の天守台に立つ会津若松城(鶴ヶ城)天守。東北地域唯一の五重天守ですが、天守台石垣は異様に大きく7重天守説を生み出す一因にもなっています。恐らくは豊臣秀吉の大阪城の天守を模倣し、石垣の端部に過度の重量が掛らないよう天守台に余地を残して建てたのだろうと考えています。

仮に熊本城旧天守が、天守台から空間の余地を残して建てられていたとしたらメリットは何かあるのでしょうか。
考えられるのは、建物の安定性ということでしょう。例えば地震が起きれば、過度の建築重量を抱えた石垣の端部は崩壊しやすく、建物ごと崩れ落ちてしまいます。

熊本地震で崩落した五間櫓台の石垣。石垣の崩落に従って上の櫓も被災した。
同位置の震災前写真。左上に震災前の五間櫓が石垣上に存在していたことが分かります。

熊本城が城域の南西にある「古城」エリアから、現在の「本城」エリアである茶臼山台地へ移る着手を始めたのは、1599年(慶長4年)頃からと考えられており、1600年(慶長5年)頃には天守が完成したとされています。(熊本城公式HPより引用。諸説あり。)
五重天守として最初期の時代に建造された大坂城(1585年 天正13年)は、恐らく大重量の天守をそのまま高石垣に載せるのは不安があったため、石垣の端から離して建物を載せたと思われます。1593年(文禄2年)に築かれた会津若松城五重天守もこれに倣ったものと思われます。
熊本城の天守台の石垣は、反りが大きく算木積が全く見られない古式なもので、本城の中でも最も古いものであると考えられますが、それでも1599年頃と推定されているようです。
この熊本城天守台が造営された頃はすでに、日本各地で次々と大型の五重天守(名護屋・伏見・岡山・広島城)も造営されているので、規模の小さな三重天守(宇土櫓の前身建物か)をわざわざ残地を残して建てる技術的な理由は無いように思われます。逆に1600年頃完成といわれる熊本城五重天守は石垣からはみ出しています。

そうなると、古城といわれた隈本城の不要になった天守を移設した可能性が高いように思うのです。

二重目と三重目に庇屋根を付けると5重の熊本天守と同じ建築構成になります。この宇土櫓を大きく発展させると現天守になることから、宇土櫓の初代天守説に信憑性をもたらします。