中津城天守は実在したか(1)

城ファンの一考察

私は、昭和からの城マニアです。昭和期の城郭本は発刊も少なく、中津城も元々天守が無い城として紹介されることが多かったように記憶しています。現在の模擬天守も史実にない新造天守と批判的に書かれていました。実際、今の天守があった場所には天守台は存在しなかったようです。昭和30年代の古書籍で確認すると、模擬天守のある薬研堀石垣の高さは同一で、模擬天守台をよく見ると、石を上積みして天守台を新造し鉄コン構造の天守を載せていることが確認できます。

新造された天守台石垣は鈍角です。これに矩形の建造物を載せるには不都合だったのでしょう。現在の中津城「天守閣」が萩城天守に似せて造られているのは、萩城が古写真によると一階部分を張出で調整しているので、これを用いて解決を図ったものかと推論します。

中津城について思うこと

中津城を訪れて感じる所が幾つかあります。

その一 およそ要害と思い難い立地

中津城は、日本三大水城といわれています。典型的な平城ですが、高松城や今治城と比べて幾重もの水堀を巡らした複雑な縄張りは見受けられません。築城当時は海水を堀に引き込んでいたようで、海岸線も、より城域に近かったのだろうと思います。周防灘と中津川(高瀬川)に面した東・北側は固いものの、西・南側は堀幅も小さく城下町の総構えが守城の要のように思えます。九州最古の織豊期の城郭で12万石規模では、この規模になるのでしょうか。築城名人といわれた黒田如水(官兵衛孝高)のイメージが評価をかさ上げしているようにも感じます。

その2 古文献上に天守の存在が伺われるが、天守台(もしくはその跡地)を発見できない

中津城を最初に築城した黒田孝高(官兵衛・如水)の手紙には関ヶ原合戦の際、天守の存在に触れた記述があるそうです。また、細川時代には天守を小笠原明石藩に譲るという約定があるという記録もあり文献上では江戸時代初期までは天守が存在したのではないかと思えます。偽書と判明しない限り、ありもしないものを藩主が他藩に手紙で書くとは思えないのです。

その3 本丸は城下町とほとんど比高差がなく、政策的・軍事的に高層の物見(天守)は必要だったはず

実際に中津城を訪問されると分かりますが、他の城下町のように本丸と天守台が高地にないので遠方から天守は見つけづらい印象です。模擬天守は五層の高楼なのですが、遠景からでは木々に囲まれて隅櫓程度のようにしか見えない印象です。そのような立地を前提にすると、遠方を見る物見や領主の権威の示すという意味で、天守の建設ニーズは非常に高かったと思うのです。また、金箔瓦が城内から発掘されています。豊臣政権の威信を示すための金箔瓦なら石垣とその上にそびえる天守の必然性は高いのではないでしょうか。

五重の天守にしては周辺の木々に囲まれるとほとんど目立たないロケーションです。実際、市街地からは天守の姿は、ほとんど拝めません。

中津城の縄張りについて

左の写真は、中津城の縄張り図の現地掲示板写真です。

城下町には、「お囲い」という総構えで敵を場内に進入させないようにしています。

西側は大きな河川に守られ責めづらいとは思いますが、南側や東側は堀幅も狭く縄張りも単調で、日本三大水城の一つといわれるには少々頼りない感じがします。本丸の縄張りを見ても天守を置くのに適した場所はあるように思えません。

また江戸時代に描かれたという「中津城下図」には、中津川沿岸の本丸鉄門脇に三重櫓が描かれています。この櫓の役割は瀬戸内海(周防灘)と中津川の水上交通を担う門である鉄御門を監視、防御するためのものと推測されます。この三重櫓は天守だった可能性はないでしょうか。

中津川に面した中津城本丸西側。九州最古の石垣が土手でコンクリート通路は護岸で右側はすぐ水面です。

この写真の右側平屋の建屋を載せている横矢のかかった石垣が三重櫓の櫓台石垣です。この河川に面した石垣は、九州最古の織豊系城郭の石垣とされ、細川氏時代の石垣とは違いが明瞭です。鉄門のあたりは石で埋め戻されています。長塀の切れた先の茶色の柵あたりです。三重櫓の櫓台石垣は算木積みが未発達でおそらくは、黒田氏築城時の状態が改変されず、そのまま維持されていると思います。

実際にここに来てみると、この櫓台を天守台というにはあまりに規模が小さく、二重程度の隅櫓が収まる規模にしか見えません。天守を解体したあとは、中津城本丸では最も象徴的な櫓として存在していたのでしょう。

文献上存在する天守と現地の縄張りのギャップ

中津城は1621年(元和7年)に 扇形の縄張りに拡張されたそうです。

ここからは私の個人的な考察ですが、この際に本丸が拡張され天守台も堀ごとに埋め戻されて痕跡も無くなって江戸期を200年以上過ごしてきたのではないかと思います。

写真下部の石垣を見てほしいと思います。石垣真ん中あたりに継ぎ足しの跡があるのがわかります。右側が黒田氏時代、左側が細川時代の石垣だそうです。このように、かなりの縄張り上の改変が築城から初期の段階であったと思います。今後、城跡の発掘調査が進み黒田氏時代の当初縄張りの全容が判明し本来の天守台位置が確認されることを期待しています。