雪に包まれた会津若松城-冬に訪ねた鶴ヶ城の記録

戦国古城の旅

―雪の中に浮かび上がる赤瓦の天守を目にした瞬間、思わず足を止めた―


会津若松城--別名「鶴ヶ城」は、東北を代表する名城として知られていますが、冬の雪景色の中でこそ、その真価を最も強く感じられる城でした。
今回、会津地方を訪れる機会を得て、雪に包まれた城内と天守、そして本丸から移築され今も現存する「御三階」を実際に歩いてきました。

机上の歴史ではなく、現地を歩くことで見えてきた会津若松の姿を、ここに記しておきたいと考えました。

会津若松城(鶴ヶ城)とは―会津の歴史を背負った名城

会津若松城は福島県会津若松市に位置する平山城で、別名を鶴ヶ城といいます。
戦国時代には蘆名氏の本拠であり、豊臣政権下では蒲生氏郷によって大規模な改修が行われ、近世城郭としての姿が整えられています。

その後、加藤氏、保科(松平)氏と城主が変わり、会津藩23万石の政治・軍事の中心として機能しています。幕末には戊辰戦争の舞台となり、旧幕府軍の拠点として新政府軍と激しい攻防戦を繰り広げたことでも知られています。

現在の天守は、1965年に鉄筋コンクリートで復元されたものですが、往時の姿をよく再現しており、日本百名城にも選定されています。

若松城天守は天守台の規模がことさら大きく、復元された天守は天守台の敷地いっぱいに建てられているわけではありません。1611年(慶長16年)に起きた会津地震で天守は倒壊し、旧材を用いて組み立てなおされた天守が、現在の層塔型天守のスタイルになったと思われます。

雪に沈む場内を歩く―冬の静けさが際立たせる石垣と曲輪

城内に設置された案内看板です。初日は西出丸駐車場に車を置いて、天守方面へ歩きます。

降り込む雪を顔に受けて城内に足を踏み入れると、まず感じたのは「音の少なさ」だった。
雪に覆われた地面は足元を吸い込み、観光地とは思えないほど静かな空間が広がっています。

石垣の輪郭は、白い雪によって一層際立ち、冬の落葉によって前方の視界も開け、普段なら目立たない高低差や曲輪構成が逆にくっきりと浮かび上がって見える。
夏や秋とは違う、城郭の「骨格」が意識させられる風景となります。

冬は観光には不利と思われがちですが、城をじっくりと観光するにはむしろ最適な季節かもしれません。

天守を真横から撮った写真ですが、春から秋にかけては樹間の枝葉に覆われ、天守の姿は隠されていると思います。日本の城跡は大半が公園化されたため木々で覆われています。このため、撮影するのに場所を選びますが、冬は葉が落ち美しいいろんな角度で天守を拝めやすくなります。

会津若松城は、天守だけでなく城内をくまなく時間をかけ歩き回ることをお薦めします。
城をめぐる堀と石垣は古城の風格を今も残し、石垣は石の積み方の違いで、長い年月をかけて各大名が城を拡張してきたことが分かります。天守の建っている天守台と本丸の帯曲輪の石垣は、戦国大名蒲生氏郷が手掛けたもので、野面積という加工が少ない自然石を積み上げた豪快なものです。まさに豊臣時代の豪壮な武将の姿が感じられます。

若松城の天守台の石垣です。これは蒲生氏郷が築いた日本でも有数の巨大な天守台で、隅部には巨大な石を使用しています。蒲生氏郷時代の石垣は最も古く、加工の少ない自然石を緩い傾斜で積んでますが、高く巨大です。
翌日に撮った天守台の石垣です。野面積といいますが、蒲生時代の古い年代の石垣であることが加工の少ない自然石を積み上げた姿で確認できます。

会津若松城は若干の高地に立地しているので、二の丸側から堀を隔てる本丸石垣の高さは19mを誇ります。この石垣は江戸期初めに加藤氏によって築かれたもので、堀の水は零点下、凍り付いていました。

約19mの高さがある石垣で、比較的大きさの整った石を加工して、びっしりと積み上げています。上写真の蒲生氏郷が築いた天守台石垣と様相が全く違う加藤明成時代に築かれた石垣です。

西出丸や北出丸は加藤明成により築かれたものと云われています。蒲生氏によって築かれた東国第一の石垣を持った城は、加藤氏の代で拡張され名城として完成しました。

加藤氏時代に築かれた若松城の出丸にある石垣です。石を奇麗に切って隙間なく積み上げています。城の出入り口になる「桝形」という位置に巨石を配置して見るものを威圧します。

雪化粧の天守-赤瓦と白銀が織りなす鶴ヶ城の美

会津若松城の最大の特徴は、赤瓦の天守です。
全国的にも珍しく、雪景色の中では白と赤の対比が非常に美しい。

青空の下に立つ赤瓦の天守は、どこか西洋建築のような印象すら受ける。瓦の赤色は、豪雪地帯である会津において視認性を高める役割もあったと云われており、実用と美観を兼ね備えた構造だったことが伺えます。

若松城天守内に展示されている赤瓦。寒冷地の雪国に採用され、東国に広まっていったそうです。
降雪の合間に撮影した若松城天守。石垣や瓦に降り注いだ雪が、絶妙なコントラスを見せて雪国ならではの美しさを演出しています。
降雪時に撮った若松城天守。冬の天守は静かな佇まいのなか歴史の重みを私たちに見せながら凛と起立しています。

近づいて見上げると、復元天守でありながらも、その存在感は圧倒的で、「この場所が会津の中心地であった」という事実を実感させられます。

本丸から移築された高層建築「御三階」-城は解体されても、建物は生き残った

戊辰後、会津若松城は徹底的に解体され多くの建物が失われました。
しかし、その中で唯一現存しているのが「御三階」と呼ばれる建築です。

御三階はもともと本丸内にあった三層の高層建築で、藩主の居館の一部とも、物見櫓的な性格を持っていたとも考えられています。廃城後は、市内の阿弥陀寺(会津若松市七日町)に移築され、現在まで奇跡的に残されています。また御三階の玄関は、本丸大書院の表玄関の転用で御三階と一体となっています。

「現存天守」ではありませんが、会津若松城に関わる建築として、極めて貴重な存在となっています。

若松城本丸敷地内にある御三階の跡地。ここにあった、三層四階建ての高楼は明治三年に阿弥陀寺に移築されています。
阿弥陀寺境内に入ると本堂の横に三層の高楼「御三階」(写真中央)が見えてきます。御三階の左横にある立板は沖田総司、永倉新八と並び新選組最強の剣士の一人であったといわれる「斎藤一の墓」の説明版です。

実際に御三階を訪ねて-市中に残る“もう一つの会津若松城”


今回、実際に御三階も訪ねてみました。
城内から離れた市街地にあり、周囲の住宅に溶け込むように寺院の中で佇んでいる姿は、城跡で見る建築とはまったく違う印象を与えます。

間近で見る御三階は想像以上に高く、真壁造り(柱が外に露出する)の木造建築ならではの構造が良く分かります。天守が戦いの「象徴」だとすれば、御三階は御殿に連なる「生活の痕跡」ともいえる存在で、当時の城のリアルな姿を感じさせてくれます。

天守と御三階、両方を実際に見ることで、会津若松城という城郭が立体的に理解できるようになった気がします。

写真はJR七日町駅ホームです。会津若松城唯一の現存建築物「御三階」に行くには、JR若松駅から只見線を利用して七日町駅降車で一駅で着きます。「御三階」のある阿弥陀寺は七日町駅の道向かいにあり便利です。私は、神指城へ行くため復路での利用を考えましたが、列車本数が少なく時間ロスを考え乗車を諦めました。列車の本数が少ないので駅時刻表のチェックは必須で、時間を有効に使うためには市内周遊バスの併用もお薦めしたいと思います。周遊バスは一日乗り放題なので「白虎隊」と「さざえ堂」で有名な飯盛山観光を盛り込みたい方はバスの利用が良いと思います。
正面から見た御三階です。1階の唐破風入り口は、本丸御殿のもので御三階と一体になるよう移築されています。
側背面から見た御三階。一階の壁は近づいてみると補修の跡も痛々しく、かなり傷んでいました。

天守と御三階-復元と現存が語る二つの城の姿

復元された天守は歴史の象徴であり、会津の歴史を伝えるランドマークです。一方の御三階は、戦争と廃城をくぐり抜けた「本物の遺構」として、静かに当時を語っています。
どちらか一歩だけではなく、両方を見ることで初めて、会津若松城の本当の姿が浮かび上がってくるようです。

天守と本丸御三階を比べてみましょう。天守はよく見ると本丸の隅に在って、本丸入り口の鉄門を背後から護る位置にある、極めて戦闘的な目的を持った建物であることが分かります。本丸側から外へ向けられた天守の1重目部分は多くの銃眼が敵に向けられています。

本丸内部から鉄門を見た景観。外側に天守台の石垣が見えると思います。天守台石垣には手前に小さな石垣も積み増されています。これら石垣の真上の建物=天守側から一斉射撃で、本丸に進入しようと門前に迫った敵を背後から射撃することができます。天守は長屋で鉄門と繋がっており、横からも背後からも鉄門に迫る敵を射撃できる位置にあります。
写真左側の一段高い本丸を護るため、天守台の高石垣が本丸隅部に設けられ、天守自体には窓の他に、小さな銃眼が本丸に迫りくる敵に向けられています。特に1重目は二段になり、写真でも上が6箇所下が11箇所で計17の銃眼が向けられているのが分かります。

一方で御三階の方は、案内板によると内部は4階になっており、3階に上がる階段は用のないものが上がれないように梯子を引き上げるようになっているそうです。本丸内部の御殿に隣して建てられ、密議所として利用されました。(内部は非公開)
最上階には高欄があり、最上階の屋根は城郭建築らしくない寄棟の屋根になっているのは、戦いの櫓ではなく本丸内における御殿の系譜にあることを示すものと理解できます。

御三階に近づいてみると、各所に傷みが目立ちました。背後の目立たないところでは、壁をモルタルで補修をしているところもあり個人での(お寺)維持管理が大変なことが伺われます。元位置への再移転や文化財として十分な保全がなされることを期待します。

天守と御三階いずれも最上階に高欄を持った高層建築です。天守は白鶴のような秀麗な姿を見せているのですが、よく見ると窓の間に無数の銃眼を本丸以外の周囲に向けている戦いの司令塔です。戊辰戦争でも官軍大砲の攻撃目標とされ、多くの砲弾に被弾し明治初期に取り壊されました。そして、昭和になって会津精神を示すメモリアルとして再建されています。
もう一方は(御三階)は本丸御殿に接して建てられ政治の場(密議場)として、市内寺院に移築され寺院建築になり、現代までひっそりと生き残りました。真横に新選組「斎藤一」の墓があります。斎藤も激しい戊辰戦争を生き残り明治に名を変え、静かに人生を全うしました。斎藤の生き様とこの御三階の佇まいは、戊辰戦争後の会津人の姿を象徴しているように思えます。

本丸の御殿側から見た天守。本丸の外側には多くの銃眼があるのに対して本丸側は明らかに銃眼が減っています。こちらから見える美しい天守の姿はまさに「鶴ヶ城」の名にふさわしい優雅な姿で見惚れてしまいます。

雪の会津をかたちづくる風景-会津磐梯山と神指城を訪ねて

神指城訪問時に車から降りて会津磐梯山を見ることができました。会津訪問の際にJR磐越西線鉄道から見えるこの山の姿は圧巻です

会津若松城を歩いたこの日の風景として、忘れがたいのが、雪化粧をまとった会津磐梯山の美しい姿です。
市内から望む磐梯山は、城の存在をはるかに超えたスケールで会津という土地そのものを象徴しているように見えました。

また、市内に残る神指城跡も雪の中で訪ねました。
豊臣政権下で築城が進められながらも、完成を見ることなく終わった幻の城です。雪に覆われた広大な廓と土塁は、未完に終わったと思えない規模を今に伝えています。整備された城跡とは異なって、忘れられ静まり返った空間に立つと「もし完成していたなら」という想像が自然と浮かびます。

神指城址には特別天然記念物の大クスがあります。この大木を含めて城址の森は樹氷に覆われていました。まさに歴史のロマンを感じさせる幻想的な風景でした。

雪景色の会津を訪問することで、天守や建物だけではなく、山や城跡が会津の歴史を語り続けていることを強く感じた一日でした。

冬に会津若松を訪れる際の注意点

最後に冬に会津若松城を訪れる際に気を付けたいことを述べます。
・積雪や凍結が多く、場所によっては足元が非常に滑りやすい。(履物注意)
・城内は広いので、防寒対策は必須です。フード付きダウンの着用がお勧めです。
・城と城下町の市内観光には「まちなか周遊バス」が便利。一日フリー券が使い勝手が良く、大人700円 小人350円、ハイカラさん・赤べえ号が互いに反対回りで回りで1時間に一本のダイヤで各地バス停に留まります(2026年2月現在)。真冬の路上はバス待ち時間が寒いので時刻表を見て観光の時間配分(見学・食事・土産・手洗い等)を効率的にすること。
・お急ぎの方はわざわざ喜多方に行かなくても、美味しい醤油ラーメンが食べられます。(若松城入り口近くに美味しい喜多方ラーメン店がありました)
・観光地は市内広範に点在してるのでレンタカーか周遊バスの利用がお勧めです。
冬季は観光客が少なく、静かに城を楽しめる反面、移動には余裕を持った計画が必要です。

まとめ―雪の中で出会った会津若松城の記憶

雪景色の天守、静まり返った城内、そして市中に残る御三階。
会津若松城は、単なる復元天守の城ではなく、「土地の記憶そのもの」として今も会津人に生き続けている城だと感じました。

城は天守だけでは語れない。
会津若松城は、そのことを最も強く教えてくれる城の一つでした。

若松城天守からみる城内の姿。木々の黒さと地面を覆う雪の白さの対比はまるで水墨画のようです。