会津地方の史跡を探訪ー神指城と白虎隊飯盛山

戦国古城の旅

会津地方を巡る旅で、戊辰戦争の歴史と冬の雪景色を体感しました。
本記事では、会津若松城をはじめ、白虎隊の足跡が残る飯盛山、そして戦国期の未完成城・神指城まで、冬の会津紀行を写真とともに紹介します。

真冬の会津路を行く―猪苗代駅から会津若松駅へ

会津旅行は猪苗代町のホテル泊のため、翌日朝から会津若松市内への移動はJR磐越西線を利用することにしました。スキー客と地元の皆さんが混在する駅舎から列車に乗ってJR会津若松駅まで移動しました。

猪苗代町をはじめ会津地方では野口英世の顕彰が盛んのように感じました。私は子供の頃「野口英世」の伝記を読んだ記憶があります。現代では科学的に多く業績が否定されていることを知っていますが、苦学して名を成し、立身出世を果たした郷土の英雄であるという事実は否定できません。
人がいない早朝の猪苗代駅の構内。静かなホームの佇まいが自分に東北の旅に出たことを実感させます。
JR磐越西線の車窓から見た磐梯山です。猪苗代付近では天気次第ですが、この火山の巨大な姿を見ることができます。地元の人には当たり前の風景でも、九州から会津地方は遠く感じられて、目に焼き付けておくべき光景でした。
会津若松駅に到着しました。バスを使って移動します。駅前の白虎隊士の銅像を目にして会津に来た実感を持ちました。駅舎も会津若松城(鶴ヶ城)の外観に少し似せて旅情を誘います。
JR会津若松駅に、お正月用に飾られ展示されていた民芸品の「赤べこ」です。この民芸品は至る所で目にしました。

JR会津若松駅について、この日夕方までの旅の計画を整理します。優先順位は①「阿弥陀寺御三階」②「神指城址」③「飯盛山」④「昼食は喜多方ラーメン」で、日中の時間をできるだけ有効に使い、夕方までにJR会津若松駅に戻って、別行動の同伴者の車に合流したいと、この時は考えてました。

まずは、阿弥陀寺へ向かうため七日町へ向かうバスに乗ることにしました。駅前広場にある会津バス駅前案内所で一日周遊バスの切符を購入しました。「ハイカラさん」と「あかべぇ」の2台の派手な観光バスが市内の観光ルートを逆回りで周っていて、1日乗り放題です。さっそく七日町方面に距離が近い「ハイカラさん」の方に乗って七日町へと向かいました。

阿弥陀寺はJR七日町駅の道向かいにあります。お寺の敷地には墓地があり、当日は雪も降り積もり、自分以外に観光客がいない静かな風情のお寺でした。
映画や漫画・ドラマで有名な新選組隊士「斎藤一」の墓です。斎藤一は、近藤・土方・沖田の次くらいに新選組では知名度が高く、剣技が優れていたことからオダギリジョーや江口洋介などの有名俳優が演じています。

七日町を出てバスで鶴ヶ城へ向かう

周遊バスの「ハイカラさん」は七日町通りを通行して、JR七日町駅前広場に停車します。写真の七日町通りは古い町並みにおしゃれなカフェや民芸品などの店が入店しており、レトロな街の散策が好きな人には魅力的な所です。

七日市から次に神指城に向かうことを考え、神指方面行きのバスターミナルのあるJR会津若松駅へ戻ろうとJR七日町駅に行きましたが、列車の時刻表を見るとバス乗り継ぎの連携が致命的に悪く(鉄道・バス便共に少ない)、待ち時間の長さには耐えきれず、この日の神指城訪問は諦めました。周遊バスを使い鶴ヶ城(会津若松城)・飯盛山方面へ向かうことにしました。

鶴ヶ城入り口で周遊バス「ハイカラさん」を下車。水堀を渡って少しづつ天守に近づいて行きます。初めて訪問する城址に対する期待感で胸躍る瞬間です。はやる気持ちを抑えながら周囲の写真を撮りながら進みます。

鶴ヶ城入り口で、周遊バスを降り城内に向かいます。遠目に見える天守の印象は、長崎県の島原城に外観や周囲の景観が似ている気がしました。秀麗という言葉がふさわしい天守の姿に期待感が膨らみます。

・会津若松城の現地レポートはこちら

本丸御殿跡から見た会津若松城(鶴ヶ城)天守。本丸は広く、冬の曇り空と一面の雪が、天守の赤瓦と冬の樹木の黒さを対照的に浮かび上がらせます。
天守最上階からの風景です、天守内は「走長屋」・「鉄門」・「干飯櫓(二重二階)」まで、通路でつながっており内部構造を観覧することができます。外は短時間で気候が変わり、外は大雪が降り注いで雪景色を上書きしてゆきます。
天守入り口と天守まで結ぶ「走長屋」内部(1枚上写真の建物内部)です。天守の出入り口周辺は土産物販売コーナーになっています。堀や石垣に囲まれた城内の厳めしい雰囲気から解放され、楽しいショッピングの時間となります。
土産物販売コーナーを抜けて奥へと歩いていくと干飯櫓まで長屋は続いています。この部分は木造復元されており、本物の城郭内部が再現されています。内部から本来の城の姿を鑑賞できる貴重な場所です。見落とさず干飯櫓まで足を延ばすことをお薦めします。

天守は鉄筋コンクリートの復元なので、入り口の走長屋から天守内部の最上階まで空調が保たれており、快適に会津若松城の歴史を知ることができます。階段も現存天守のように急勾配ではないので、危険を感じずに昇降できます。最上階は外を見渡す廻縁と高欄があり、会津城下を眺めることができます。

会津名物・喜多方ラーメン体験

私が利用した「まちなか周遊バス」は、ダイヤ改正があったようで、発着が30分間隔から1時間間隔に変更されていたため、時間的な余裕が生まれました。待ち時間を無駄に使いたくないので、鶴ヶ城入り口の喜多方ラーメン店に入りました。福岡では、ラーメンといえば豚骨系が主流で、醬油ラーメンは、インスタント麺くらいしか食べる機会が無いので新鮮です。券売機で戸惑っていると店員さんが、心配して親切に対応してくれました。暖かいのはラーメンだけではないようです。

鶴ヶ城入り口の周回バス停近くにある喜多方ラーメン店「喜鈴」さんに入りました。
味に深みのある醤油スープと麺がよく絡み、美味しくいただきました。

再びバスに乗り飯盛山へ向かう

食事を終えて周遊バス「ハイカラさん」に再び乗車、白虎隊の飯盛山へ向かいました。

白虎隊は戊辰戦争(1868年)で会津藩を守るため戦った少年武士たちで、飯盛山で城下を見て、自刃した悲劇として日本中に知られています。
飯盛山に到着しました。
「飯盛山下」で周遊バスを降り、バス停で時刻表を確認してから飯盛山へ向かいます。入り口の参道を進んで見上げる階段にまず圧倒されました。この石段を上がるのかと一瞬ひるみましたが階段横にエスカレーター(有料250円)があり、ためらわず利用しました。

詳細は公式サイトを参照ください。会津若松市観光サイト

バス停を降りて見上げる飯盛山です。それほどの高さがある山ではありませんが、季節が冬ということで雪中上手く登れるか不安が一瞬よぎります。
この長大な階段を見たときに、石段が雪で凍っており怯まずにはいられなかったです。冬に登るのは雪で滑って間違いなく大変危険です。入場料と思って横にあるエスカレーターを利用しましょう。帰りは迂回路を使って、この石段は使わずに戻ってこれます。

長いエスカレーターが終わると、白虎隊士の墓がある広場に出ます。石碑があり、ここが自刃の場所かと思いきや、自刃の地は少し離れたところにあるようです。案内板に従って凍った道を歩きます。山の上では、気候が変わりやすいのか急に吹雪いてきました。厚着でも顔面が冷たい、気合が入ります!

山上は少し広くなっており、白虎隊士十九士の墓があります。周囲は静かで、厳かな雰囲気を感じました。

雪も強くなり、足元が悪いので下山する人も見かけましたが、石段・坂道を上り下りして視界の開けた自刃の地に着きました。前方市街地を眺めると鶴ヶ城(会津若松城)が見えます。

写真左上に小さく見える森が鶴ヶ城です。ここからだと城の位置はわかるのですが落城したのか、未だ籠城中か判断するには遠いと思われます。
白虎隊士の自刃の地です。鶴ヶ城方面に手をかざし、様子を見ている少年の石像に胸が痛みます。
下山途中で、写真の「さざえ堂」を見学できます。それほど大きな建物ではありませんが、こんな風変わりな木造建築物は見たことがありません。暫し、足を止めて見学します。

戻りは、順路に従い途中有名な「さざえ堂」といわれる国指定重要文化財のお堂を撮影しました。

この日は、これで夕方になりました。周遊バスの飯盛山下停留所からJR会津若松駅に戻ります。同行者のレンタカーに合流して芦ノ牧温泉に向かいました。

雪の大内宿を訪ねる

芦ノ牧温泉で一泊した翌日は、「大内宿」を訪ねました。南会津の山中にあり、寄棟造りの民家が旧街道沿いに建ち並んでいます。現在は、民宿や土産物屋、蕎麦屋などが多数立ち並んでいますが、人気のない雪深い旧街道を歩くと、タイムスリップして江戸時代に迷い込んだ気持になります。 
大内宿の案内はこちらのほうへ
リンク先 下郷町観光協会

早朝の雪深い大内宿の景観です。約450メートルの茅葺民家が雪を抱いて建ち並びます。
周辺の山道も雪が深く、観光客もまばらな様子です。暖かい甘酒をいただきました。

未完成の幻の城・神指城訪問

翌日、旅の終盤にレンタカーで訪ねたのが、会津若松市内に残る神指城跡です。城址の森は白銀の樹氷に覆われていました。

神指城は、1600年(慶長5年)に上杉景勝が会津盆地の中央部に新たな拠点として築城が進められたものの、関ケ原合戦によって工事が中止され、未完成のまま今日に至りました。面積は若松城(鶴ヶ城)の約2倍といわれる広大な構想でしたが、現在は土塁などの遺構がわずかに残るのみとなっています。

雪に覆われた神指城跡は非常に広く、土塁や郭の輪郭が今もはっきりと残されています。
整備された城跡とは異なり、人の気配が少ない分、かえって想像力をかき立てられる場所です。

神指城の二の丸跡です。土塁が最もよく保存された場所で木々が遠目にも凍り付き、樹氷で白い森のように見えました。
神指城二の丸跡で「高瀬の大木」といわれる国指定天然記念物を見ることができます。根元の周囲は約12メートルの巨木です。築城前からすでに大木として存在していました。
二の丸の土塁に登ります。見渡すと周囲は平地で、人工的に土を盛って作られた場所であることが分かります。
二の丸から本丸を望みます。広大な城域を感じられます。

会津紀行のまとめ

短い日程でしたが、会津の歴史を巡る旅を終えました。
雪の会津を歩くことで、史跡の姿はより印象深いものになりました。
観光の易さだけを考えると冬は不便な季節かも知れません。しかし、静かな環境の中で歴史と向き合えるという点では、むしろ最適な時期だったと思います。

冬の会津を観光する際は、次のことを頭に入れてください。
・観光地が分散しているので、JRやバスの「待ち時間」や「移動時間」のロス時間を極力減らすため、あらかじめ訪問順を決めておくこと。
・大内宿や神指城の訪問は、公共交通のアクセスは不便車の移動が必須と思います。七日町や若松城、飯盛山は周遊バスがありますが、冬に時刻改正があり1時間に一本の割合でした。自家用車(レンタカー含む)の利用が最も効率的と思いますが、雪道に慣れてない方は運転に注意です。

私は会津若松城を中心に、飯盛山や神指城を組み合わせて巡ることで、会津の歴史をより深く立体的に感じることができました。
最後に、ある少年会津武士について書き残したいと思います。

周遊バス「ハイカラさん」に乗った際に、近藤勇の墓がある天寧寺で、萱野権兵衛・郡長正の墓所であるとのアナウンスもあります。鶴ヶ城には、会津戦争の責任を一身に負い自刃した萱野権兵衛の殉節碑が鶴ヶ城にありますが、郡長正はその萱野の子で、謎の死を遂げた興味深い人物です。

郡長正は、会津藩(当時は斗南藩)子弟として、1870年(明治3年)九州豊前の地、豊津藩(旧小笠原藩)の藩校「育徳館」に留学しました。育徳館高校(旧名・豊津高校)は私の出身校で、郡長正記念庭園が校内にあり、この名前を初めて記憶しました。郡長正は、寮の食事の不満を故郷の母に手紙で書き、それを他の学生に見咎められて自刃したという史話を在学時に聞かされ、自分と同じ歳の会津人が遭遇した事件に驚きがありました。最近になって、郷土史研究も進み自刃の理由(食事の不満)は後世の創作であると知りました。自刃した理由は不明ですが、遠い九州の地で十六歳の少年が会津武士の誇りを守らざるを得ない状況下にあり、命を失ったことは事実でしょう。

会津藩家老の萱野権兵衛長修は凄惨を極めた戊辰戦争の全責任を一身に負い、藩候と全藩士に代わって、明治2年切腹した。郡長正その子で、遠い九州の地で16歳の若さで自刃することになります。
写真は福岡県みやこ町豊津の県立育徳館高校に残る「育徳館黒門」です。鉄道の無い時代に、東北地方から九州までは、気が遠くなるような距離感があったと思います。郡長正はこの異郷の地で会津武士として命を落とします。

会津人に受け継がれてきたこの「ならぬことはならぬものです」という言葉は、いまでも何か自分に大事なことを問いかけてきているよう思えるのです。