福岡城を描いた最古の絵図『福博惣絵図』
1646年(正保3年)に福岡城を描いた最古の絵図『福博惣絵図』には天守は描かれていません。「天守台」と表記されています。一方で天守台に連なる石垣(小天守・中天守台)には矢倉跡との表記があります。ゆえに『福博惣絵図』で天守台が天守跡と表現されていないのは表記が不自然という指摘があります。私は、本丸縄張りにおいて、最高所にあって軍事の中心的存在であれば、天守跡という書込みではなく、そのまま天守台として示したことに違和感を感じません。また、江戸期は蔵が天守台には建てられていたそうなので、天守台は平時も役割を保っていた場所になり、天守台と表現されていても自然に感じます。
また、現在中天守、小天守台と呼称されている櫓台が『福博惣絵図』では中天守跡・小天守跡と表現されてないのも気になるところです。「矢倉跡」ですから、建築物があったのは間違いないと思いますが、実際はどのような建物が建っていたのでしょうか。

中天守・小天守は代用天守たりえるか
天守台に隣接していても、見た目が天守らしく見えない櫓が代わりに天守と呼称されることがありうるかという話です。
最近、CG映像化された福岡城では中天守・小天守は2重・3重で描かれています。おそらく推定で作成されたものと思いますが、他の福岡城内の櫓との比較でみると、小天守台の規模からは二重櫓、中天守は小天守への渡り櫓的なもので、広島城の天守東・西廊下の規模程度(単層で天守台の接合部分は二重造)であった可能性はないでしょうか。1638年(寛永15年)に「御天守台廻りの御矢倉長屋御除き候段申し上げ候処、御尤もに思し召し候」とあるそうです。おそらくは、これが現在中天守・小天守といわれている矢倉(櫓)と長屋建物(多門櫓)のことだと思います。御矢倉が小天守、長屋が中天守です。これらを代用天守として当初から黒田領内で「天守」と呼んでいたというのは、違和感を感じるのです。

また、天守台石垣に西側で重なる付櫓台の建物(福博惣絵図では単層及び二重櫓)を天守櫓と呼んでいたようですが、付櫓を天守代用と考え天守と呼ぶのでしょうか。代用天守というのは江戸城富士見櫓や弘前城本丸三重櫓(現天守)、鳥取城御三階のように当初の天守が失われ、規模・意匠・立地などで本来の天守に次ぐ規模の櫓がイメージされます。
全くの推論で申し訳ないのですが、小天守、中天守、天守櫓といわれた天守台廻りの建築物を「代用天守」と考えるのは、天守が城内のシンボリックな存在として発生した経緯を考慮すると、しっくりきません。南二の丸にあった南三階櫓のほうが天守の代用としての規模があります。また、天守台のすぐ南側には武具櫓があります。これは東西が三重櫓になった二層の多門櫓で場内で最大の武威を明治時代まで示しています。中天守・小天守・天守櫓が代用天守というならこの武具櫓を凌駕する規模が必要な気がします。中天守や小天守が代用天守なら、他藩の代用天守のように「天守」と呼ばず「御三階」「三階櫓」などの呼称が使われていても良い気がします。
天守台とこれらの建築物が少し離れて存在し、独立性があれば代用天守の話も納得できるのですが、巨大な天守台に接した三層(あるいは二層か)の建造物で代用したという認識を持つのか疑問に思うわけです。
令和7年2⽉28⽇福岡市の発した文書「福岡城天守台発掘調査の許可について」(プレス発表用の市政記者あて資料か)に「参考」として興味深い一文がありました。
それは「<参考>福岡城の天守台について 福岡城は福岡藩初代藩主、⿊⽥⻑政が1601年から7年の歳⽉をかけて築いた城です。福岡城の天守台は⼤中⼩の3区画で構成されており、⼤天守台がいわゆる天守台と呼ばれるものです。⼤天守、中天守の語は江⼾時代の⽂献には⾒られず、明治以降に呼ばれるようになったものと考えられていますが、⼩天守の語は18世紀後半の江⼾時代後期の⽂献に⾒られます。」と説明されています。この内容からは築城当時は中天守台・小天守台と呼んでいる場所は、恐らくは後世の史家の解釈による名称であって、天守台は大天守台のみであったのではないかということです。巨大な唯一の天守台に隣接した櫓台上の建物は代用天守足り得ないのではないかと私は考えるわけです。

次回では、天守を取り壊す理由や予算について考えてみたいと思います


