今日の目的地は、天守も櫓もありません。
案内柱すら見落とせば通り過ぎてしまう小さな竹林の中の城跡です。
結論(大溝城への旅)
大溝城はこんな人におすすめ
大溝城(近江・滋賀県)は、安土城と同時期の古い天守台石垣が残されている城跡です。
高島市のJR近江高島駅から徒歩数分です。少ない見学時間で駅に戻ることが可能ですので、織田信長や明智光秀、本能寺の変に興味のある方が訪問すると、戦国支配者たちの栄枯盛衰の厳しさを感じることができます。
城址には観光用の建物はありません。歴史を偲ぶ場として、戦国ドラマなどのファンの方に立ち寄りをおすすめしたい城址です。
最大の見どころは「忘れられた天守台」
大溝城は、現在は本丸周囲の堀も埋められて、苔むした天守台と付け櫓台と思われる石垣のみが、平地の竹藪にポツンとあります。この時代は天守を備えた城は、先駆的で一部崩壊している天守台石垣は、石材も一つ一つが大きく織田一門の権勢を感じます。
また、その一方で石垣に張り付いた苔が、放置されてきた年月の長さを物語っています。
本能寺の変との深いかかわり
大溝城は、安土城を核とする琵琶湖城郭ネットワークの一環として、織田信長が築城を命じたものです。城の縄張り(城の設計)は信長重臣の明智光秀によるといわれています。城主は織田(津田)信澄という武将ですが、信澄は明智光秀の女婿であり、父はかつて信長に謀反を起こした織田信行の子であることから本能寺の変に際して光秀の共謀者と疑われ殺害されています。本能寺の変で大溝城は主を一時失います。
基本情報・アクセス
| 最寄り駅 | JR湖西線 近江高島駅下車 徒歩7分程度 |
| 所要時間 | 30~45分 |
| 見学時間 | 20~30分 |
| 見学の注意点 | 城址に接する車道はないようです。車道からセメント舗装された細い路地に入ります。記事内で掲載する「⇒大溝城」の案内柱を見逃さないよう絶対注意です。 |
| 駐車場について | 大溝城址に専用駐車場はありません。車訪問の方は周辺の有料駐車場を利用となります。 |
大病院の駐車場裏に眠る「忘れられた天守台」を探す
大溝城は、JR近江高島駅に近く、駅の東南約150mにあります。グーグルマップで位置を確認すると本当に至近の距離ですが、アクセス道路が明瞭に分かりませんでした。
まずは、人気の少ない駅前広場に出てみます。すると不思議なオブジェ群に遭遇します。「ガリバー旅行記」のようですが、高島市と何らかの関わり合いがあるのでしょうか。私も不思議の国に来たような心持になりました。
近江高島駅は停車の列車本数が少なく、次の列車に間に合うよう時間配分を気にして大溝城方向に歩を進めます。


スマホの地図アプリで城址の位置を確認します。高島市民病院という大きな病院の駐車場裏にあるので、ひとまず直近の病院駐車場へ歩を進めました。入り口の守衛さんに声をかけ、大溝城祉に行くのに駐車場の敷地を通り抜けて行けるのかお尋ねしました。駐車場からは行けない(通り抜けできない意か?)と答えられて、駅前通りの車道(300号線)まで戻って城址方向へと迂回して歩きました。駅通りから突き当り三叉路を城方向に70mほど歩いたら、大溝城の案内柱を発見しました。ここから、狭い路地道に入ります。この標柱は城址への目印として必須です。これを見逃すと道に迷うことになり、時間を浪費すること必定なので、下に写真を掲載します。

城址の小さな森に向かう
標柱に従い、介護施設の背後を通過するセメント舗装された里道を歩きます。多少、歩くと平地の中に城址と思しきポコリと小さな丘の竹林が見えてきました。大溝城本丸(ほぼ天守台)です。

近づいて行くと、草木に隠れて半ば崩壊しかけた石垣の一部が見えてきました。
周辺を見る限り、積極的な史跡公園化はされてはいません。
印象としては、自分が在住している北部九州で見かける小規模な古墳を訪ねた時のように感じました。
江戸時代早々に廃城となり放置された城址としては、冬に会津の神指城址を訪ねましたが、ここも同様の佇まいを発しています。
雑草の生い茂る空地から独立してポツンと有り、これが戦国武将たちの城だったとはとても思えませんでした。
人の気配がないのは山上にある城なら分かるのですが、ここは駅近の住宅エリアの中にある平地の城です。
私は、大した汗もかかずに辿り着いた大溝城天守台に神秘性を感じずにはいられませんでした。

雑木と草に埋もれた天守台石垣の前で、しばらく立ち尽くしました。
人の気配はありません。
思わず石垣を見上げたまま立ち尽くしました。
風で竹が揺れる音だけが聞こえます。
ここが本能寺の変と深く結びついた城とは、にわかに信じられませんでした。
どこにでもある地方の田園風景の中に寂しく佇んでいます。
なぜ、大溝城は築かれたのか
・湖上交通の要衝として築かれる
城が築かれた大溝の地は、京都から若狭、越前、北陸諸国に通じる古代の北陸道にあり、琵琶湖西岸の要港でもありました。大溝城はこの水陸交通の要衝に築かれた平城で、琵琶湖と内湖である洞海(現在の乙女ヶ池)の水域を利した水城でもあります。
・織田信長の琵琶湖支配
織田信長は1576年(天正四年)安土城を築城し本拠地とします。信長は、安土城のある琵琶湖の四方に城を配置することで、琵琶湖の制海権を掌握しようとします。明智光秀による坂本城・羽柴秀吉による長浜城が有名ですが、大溝城は、信長が「琵琶湖城郭ネットワーク」の一環として1578年(天正6年)高島郡領主である信長の甥(弟・織田信行の長男)織田(津田)信澄に、安土城の対岸に大溝城を築城させています。『鴻溝録』によれば、城の縄張り(設計)は明智光秀と伝わっています。
『鴻溝録』は文政7年(1824年)の書物で2世紀以上後の時代に書かれたものですが、信長・光秀・信澄、三者の姻戚関係性からは信憑性が高いと考えられています。

光秀が縄張り(設計)して信澄が守った城
・明智光秀という戦国武将
本能寺の変で有名な明智光秀は、その出自については諸説ありますが、身分の低い立場から幕臣となり15代将軍足利義昭に仕えます。その後、義昭から織田信長の家臣になり、1571年(元亀2年)信長の命で比叡山焼き討ちの中心人物として実行するなど織田家中で功を重ね、近江国滋賀郡5万石を与えられ坂本城の城主となる異例の出世を遂げていきます。その後、1573年(天正元年)一乗谷攻略や丹波攻略にも戦功を上げて信長に重用されていきます。最終的には丹波一国を拝領し、同時に長岡(細川)藤孝、大和国の筒井順慶らの近畿地方の織田大名が光秀の与力として配属されたため、畿内方面の軍団長としての地位までを得ることになります。1582年(天正10年)京都の本能寺で信長を討ち、織田政権を崩壊させて天下統一を阻みました。謀反の理由は怨恨説・野望説・四国説など諸説あり、現在でも多くが議論されています。その直後、ライバルの羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れ、敗走中に落ち武者狩りに遭遇して命を落としたとされています。
同時代の宣教師ルイス・フロイスの光秀評は
「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」「裏切りや密会を好む」「築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主」とあり、天主を備えた坂本城、福知山城などの築城が広く知られています。
福知山城の記事はこちらへ
・織田(津田)信澄という人物について
織田(津田) 信澄は、織田氏の一門で姓は津田を称していました。織田家では、信長に二度も背いた弟・信勝(信行)の遺児であったという境遇でしたが、待遇は厚く京都御馬揃えに参加した一門衆の序列では第5位の地位を占める人物でした。近江高島郡を拝領し、明智光秀が縄張りしたとされる城を新たに築いて大溝城主となっています。信澄は、大坂の石山本願寺退去後の大坂城の守りを任されるなど、主に畿内で活動していますが、信長は明智光秀の娘と信澄とを結婚させています。
信澄の運命が変わったのは、舅の光秀が起こした本能寺の変です。
このとき、信澄は長宗我部元親を討つ四国遠征軍の副将でした。信澄が光秀の娘婿であったことが災いして、市中には謀反は信澄と光秀の共謀であるという噂が流れており、疑心暗鬼に囚われた遠征軍の織田信孝と丹羽長秀は、信澄を大坂城千貫櫓に襲撃して討ち取ります。信澄は謀反人の汚名を着せられたまま、信孝の命令で堺の町外れに首を梟されたとされています。通説では信澄は信長に忠義を尽くし、謀反に荷担し、光秀に助力もしていないとされるので、20代で不運な最期を迎えたことになります。

本能寺の変が大溝城の運命を変えた
大溝城主の織田信澄は、本能寺の変による疑心暗鬼の四国遠征軍の諸将のなかで織田信孝と丹羽長秀に襲撃され、石山本願寺退去後の大坂城で落命します。このため、大溝城では戦の機会もなく城主が討たれてしまったことになります。
信澄の死後、大溝城主は、数年のうちに丹羽長秀以下数名の城主が目まぐるしく移り変わり、やがて大溝城は解体されていきます。江戸時代になると分部光信が大溝藩を初代藩主となり(1619年)、旧城郭内に大溝陣屋が設置され、総門を設けて、武家屋敷地や旧城下の町人地が整備され今日に至っています。
大溝城は、織田一族として重宝された頃、当時は全国的にも数少ない天守と石垣を備えた最新式の城郭でした。しかし、本能事の変以降に安土城も廃され、時代が織田から豊臣・徳川の世に移行する中、その存在意義も失われていきました。
長い年月が経過し、建物は他城へ運ばれ堀も埋められて最後に残ったのは、苔むした天守台周りの石垣のみとなりました。

今歩く大溝城
・天守台を見る



天守台背後に廻り石垣を見る

大溝城天守台横で見つけた水運の跡(内湖である洞海(乙女ヶ池)から琵琶湖へ)

上の細長い池状(堀跡?)の写真は、天守台背後を撮影しようと石垣周り(本丸堀跡)を歩いて発見したものです。航空写真を見ると乙女ヶ池の先端部分であり、ここから琵琶湖へと続いているようです。かつては、人や荷を載せて安土や京など琵琶湖の水運を活用していたのでしょう。
城が使われていた時代、幾多の船が往来し人夫の声も賑やかに聞こえていたでしょう。
今は鬱蒼とした藪のなか、人を寄せ付けない静寂のみがそこに在ります。
それにしても、竹藪に囲まれ苔むした天守台石垣や雑木が伸び放題の水辺など、見れば見るほど時代に置き去りにされた場所だと感じました。周辺に近代的な病院・介護施設の建物があるだけになおさらです。
まとめ
大溝城は華やかな城ではありません。
観光化されていないため、一般の方にはほとんど知られてないのではないかと思います。
しかし、人知れず残る石垣ほど本能寺の変の悲劇を静かに語る場所はありません。
かろうじて崩落を阻んでいる苔むした石垣に、長い歳月の重みを感じさせる旅でした。
石垣だけは、四百年以上経った今も、光秀と信澄の運命を静かに語り続けているようです。
帰り道、再び近江高島駅へ向かいました。
振り返ると、数十分前まで見えていた病院や住宅街は変わらないのに、竹林に隠れて乱雑に積まれた石垣だけが、まるで時代に置いて行かれた空間のように思えました。
もし近江を旅する機会があれば、この静かな石垣にも足を止めてみてください。
私は、この旅で最も静かに、そして深く心に残る城と出会えた気がしたのです。


