山陰路の名城を行く 松江城

各地の城
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松江城について

松江城(まつえじょう)は、島根県松江市にある平山城。別名「千鳥城」といい天守は現存で四重五階地下一階、国宝に指定されています。城跡は国の史跡に指定されており松江市観光の中心となっています。

城へのアクセス
公共交通機関を利用される方はJR松江駅から「国宝松江城・県庁前」行きでバス10分程度。出雲空港・米子空港からはJR松江駅まで空港バス30~45分程度が必要です。一畑電鉄を利用の方は「松江しんじ湖温泉駅」から市営バス北循環線内回り5分で到着。松江城のホームページの「松江城の行き方」で他城からの最寄り経路など丁寧な作りのページになっていますので下記リンクを参照ください。https://www.matsue-castle.jp/

初めて訪問される方は大手前駐車場から二の丸を経て、本丸と天守正面から入るのが定番となります。再度の訪問を行う愛好家の方には、大手前から、天守側面をそのまま北上して背後に廻り、脇虎口ノ門跡、馬洗池を経て水の手門跡、北の門跡を経由して天守に向かうルートもお勧めします。帰りは二の丸に入り木造復元の櫓内部を鑑賞(無料)すれば満足度が高くなります。また、ご家族連れで訪問の方は遊覧船を利用して一周すると良い思い出が残せます。

松江城の概要
松江城は、1600年の関ケ原の合戦で功を立て、出雲・隠岐の24万石を得た堀尾忠氏により1607年(慶長12年)から亀田山といわれる現地に築城されたものです。城の落成は1611年(慶長16年)で現在みられる天守は慶長16年の祈祷札が残っていたのでそれ以前には完成していたことになります。

松江城天守にみる「正保城絵図」との相違について

 松江城天守については、大型の望楼型天守の典型例で、戦国の城らしい素朴な外観が魅力です。三層目の出窓の屋根を含めて、入母屋破風のみで外観が構成されており、少ない破風構成で堂々たる美観を示しています。この松江城天守の外観ですが、以前から気になっていることがありました。他の愛好家の方も気付いている方は多いと思います。江戸時代に各藩が幕府に提出した「正保城絵図」に描かれた天守と現在の天守の外観の違いです。下記リンクから参照できます。

正保城絵図に描かれた松江城天守。
国立公文書館 デジタルアーカイブ

ほぼ同じ方角から見た現在の姿はこちらです

撮影日 2025.7.29


正保城絵図との相違点
1. 実物は同大の1階を腰屋根とした2階建ての入母屋建物の上に、2重3階の望楼部を載せている構成の望楼天守。正保城絵図では下層から上層に行くほど平面が規則的に小さくなり最上部以外に入母屋屋根を持たない層塔型天守。

2.破風構成(最上階屋根を除く)は、実物は二重目屋根を構成する大屋根の入母屋破風と屋根裏階となる三階の採光用出窓に用いた屋根の入母屋破風で計4か所の入母屋破風で構成されている。絵図では、妻側(短辺側)では、四重目に唐破風出窓が1つ(おそらく反対面も)、二重目屋根は大型の千鳥破風、初重目屋根には小型の千鳥破風が二つあります。平側(長辺側)では、二重目屋根に小さな千鳥破風が2つ、三重目屋根には大きな千鳥破風が1つあります。

全体的に見ると絵図は装飾的で外観は伊予大洲城によく似ており、実物の松江城天守とは印象がまるで違います。

千鳥破風と唐破風を多く設けた大洲城天守。破風の配置は違うが、城絵図の松江城を具象化すると、概ねこのような姿になる。

正保城絵図は、正保元年(1644年)に徳川幕府が諸藩に命じて作成させた城下町の地図で、各藩は幕府の命を受けてから数年で絵図を提出しています。城郭内の建造物や石垣の高さ、堀の幅や水深などの軍事情報などが精密に描かれています。現代では天守など建造物の有無や再建する際の資料としても用いられているようです。

絵図の表現が正しいものとして見た場合、考え方として築城時に層塔型五重天守で築造されたものが、後に改修されて現在の姿になったということになります。

天守の修理記録から考えてみる

松江城は近年になって、地元の熱意や郷土愛、地道な研究成果により国宝指定され、多くの観光客を集めています。平成25年には『松江城天守学術調査報告書』が刊行されていますが、大変有難いことに市のHPで内容を読むことができます。この報告書は松江城天守だけでなく他の現存天守の構造も写真入りで比較検討しており、とても参考になりました。

天守の「正保城絵図」との相違にかかる部分で、私なりに気になる部分をあげてみます。
① 月山富田城の古材が再利用されている可能性の指摘。
② 二重屋根妻立の位置、すなわち三重東西の妻が当初は現在より一尺六寸ほど内側にあったのではないかとの指摘。(一尺六寸は約50センチ弱)
③ 天守の地~2階と3階以上とでは、部材に大きな相違がある。前者の部材は古様を見せ、部材番付は彫込、後者は製材されたものが多く、番付は墨書である。

創建時の松江城天守は、それまでの居城である月山富田城から相当数の古材を用いて建造したが、古材ゆえに腐朽の進みも早く江戸期の早期から修理改築を行っていると思われます。

また、最近注目されている「竹内右兵衛書つけ(松江市指定文化財)」というものがあります。松江藩の御大工頭を務めた竹内家に伝わった史料で、松平直政松江入封頃の「寛永頃」(1624-44)のものとされています。松江城の城郭建築の大要を記録し、天守各階の間取りも図示しています。この天守平面図に朱線・朱字があり、天守に関する記述の見え消しで、「二重目也・西ニ破風有り」の記述があることが指摘されるようになりました。つまり当初は天守二重目に千鳥破風が付いており、その後に、破風が取り外されたため、朱線で見え消しが添えられたと推測されています。

正保城絵図から考えてみる

古文献や修理の記録からすると、現在の松江城天守はかなりの手が加えられていることが、推定されるので、正保城絵図のような破風構成があったのではと思いたくなるのですが、もう一度、絵図から検討をしてみます。

絵図に描かれた天守台の位置、付け櫓の配置、妻面(建物の長辺側)が正面という点は、現在のものと同じなので、絵図に描かれた天守は現存天守と基本同一の建物と判断します。
個人的には絵図のようなこれだけ多くの破風を各重の屋根に乗せるのは、現在の典型的な大型望楼天守の屋根構成の中では相当に無理があるように思えます。少なくとも三階以上の屋根構成は、姫路城天守のようになっていないと多くの破風は載せにくそうです。

松江城天守の天守台石垣をみても創建時の天守台に、そのまま初層を載せていると思われ、当初から初層規模が12間×10間の長方形で望楼型天守を築造する目的があったと推定されます。そうなると、絵図のような各層とも規則正しく減少しながら屋根に破風を載せていく層塔型の五重天守が存在したとは思えないところです。

松江城天守台。初層屋根の隠し石落しのところに比翼千鳥破風の痕跡があるというが実際破風があったとすれば美観的なバランスは良くないと思う。

結論的に言うと、正保城絵図が描いた外観には誇張があったのではないかと思っています。現状の松江城天守は三階出窓上の屋根が四階の外壁で止まっているので、天守本体の重数に算入されず四重天守に類別されていますが、松江藩的には五重天守をもつ大藩として幕府に認知されたかったのではなかろうかと推測してみます。絵図が提出された正保年間(1644年から1648年)までは、すでに天守建造には規制があり、幕府を恐れて屋根の重数を過少に表現することはあっても、逆に多く描くのは多少の疑問が残ります。(例えば大洲城・高知城・大垣城各天守は四重天守ですが三重に描かれ幕府に提出されています。)松江城の場合、正保城絵図が提出された正保年間は、築城した外様の堀尾氏はすでに断絶しており、京極氏を経て、1638年(寛永15年)新たに入国したのは徳川親藩の松平氏です。松平姓を名乗る親藩という立場から幕府に対しても実物より多少、華美で立派な天守を描いて提出しても差し支えないと考えたのではないかと考察しています。

正保城絵図については、いずれまた別稿で書かせてもらいたいと考えています。

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