福岡城天守は実在したか (5)

城郭構造・歴史考察

朝鮮の役にみる倭城と福岡城

今回は、福岡築城にあたり縄張り面から天守の存在に多大な影響があったと思われる、朝鮮の役の影響を考えてみます。

福岡市内の寺院に移築された福岡城本丸表御門。櫓部分の2階屋根が切妻なのが、黒田藩の質実さを想起させます

黒田長政の戦歴

黒田長政は、黒田孝高(官兵衛・如水)の嫡男として、初陣以来、羽柴秀吉の国内統一戦に従事、黒田父子で豊前国を与えられると1589年(天正17年)、父の隠居により家督を継いで黒田家当主となりました。豊前国時代の戦績で有名なのは、豊前宇都宮氏といわれた戦国武将城井鎮房との抗争で、岩丸山の戦いの敗戦(1587年)とその後に続く鎮房の謀殺事件です。築城面では、豊前馬ケ岳城、中津城と居城を変遷していますが、父の代であり本格的に築城の才を発揮したのは朝鮮の役からではないかと考えています。

豊前馬ヶ岳城。右側山頂の方が本丸、左側山頂が二の丸といわれています。写真でも確認できるように本丸の山頂部分は人工的に削平されているのが分かりますが、現地(本丸部分)は中世の山城遺構のままで、大きな改修が加えられているようには見えません。
この写真は、中津城内にある城井神社です。黒田長政は、豊前の有力国衆である城井氏(宇都宮鎮房)との戦いに敗北し、居城の馬ヶ岳城に敗走しました。その後、居城を中津城に移し、宇都宮鎮房と和睦をしたのちに、長政は鎮房を中津城内に招いて謀殺しています。中津城の縄張は黒田孝高(官兵衛)が行ったものと推定していますが、怨霊を鎮めるため本丸内に祀られている城井氏(宇都宮)の神社を見ると、戦国の非情と理不尽さが感じさせられます。

朝鮮の役が始まると黒田長政は黒田兵を率いて渡海します。機張倭城(キジャン倭城)は、朝鮮の役の際に黒田長政父子によって築かれたものです。本丸周辺の縄張り図を見ると、南西隅の防御は複合式の天守台に依存しており、天守が単なるシンボルタワーでなく実戦に不可欠な存在であったことが分かります。倭城については多くの城に天守台が設けられ、天守も建造されていたことが、国内、朝鮮・明の絵図や記録、出土物で示されています。守城戦で死線を潜る体験をしており、福岡築城では、この体験が生かされているのは間違いないと思います。

福岡城の天守周辺での縄張りは、非常に堅固なものです。本丸は大中小の天守台を境にして南北に分断されており、天守台南側は武具櫓を挟んで詰丸的な空間を持っています。不完全ですが姫路や伊予松山城の連立天守を彷彿させるものです。この実戦的な縄張りにおいて上から銃火を撃ち落とせる天守があるのとないのでは、戦略的に大きな差があるように感じます。

このため、福岡城が縄張り的に天守を本丸防戦の要としているのなら、天守を築造するのは最優先になりそうな気がします。黒田長政の実戦経験は、朝鮮の役で磨かれ、籠城戦を経験していくことで本丸防備のなかで天守を活用する意識が高くなったことが想定できるのです。

本丸内から見た天守台石垣。五層の建築物があれば実戦面ではかなりの防御力を有していたと思います。

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