理由もなく天守を取り壊すのは大変なことか

建設されて二十年にも満たないような五重天守を、幕府への配慮から取り壊すのは簡単なことではない、領民が納得しない、よって天守は最初から存在しないという考え方は有りでしょうか。
これはその時代に生きていない私には、感覚的にわからないというのが正直な感想です。江戸時代初期の領主と領民の関係は、支配する者とされるもの、使役する者とされる者の関係性です。領主が勝手に天守を解体したら、領民が納得せず一揆などで統治に影響がでるのでしょうか。
城普請と領民の反乱が結びついたものに1637年の島原の乱が例に挙げられます。島原の乱の原因に松倉重正・勝家親子の圧政があったことは周知のことです。年貢の過酷な取り立ての一因に島原築城があったとされています。4万石の石高で、これだけの大規模な城郭を築いたのかと島原城を訪問して感じます。一方、筑前福岡藩はは52万石で大藩ですが、城の規模は石高相応と思われ、建築物も実用的で質素を旨にしているように感じます。

江戸時代の農民は年貢のほかに臨時の夫役(ぶやく)という大きな負担を課せられます。領民には大迷惑だったのは間違いないと思いますが、何かあったら領主から首を飛ばされる封建時代です。領主側が領民のことを政治的に心配する時代なのか疑問に思います。
天守を建てる予算がなくなり機会を逸したのか
あくまで築城時の財政面のことになります。年代でいうと1601年(慶長6年)から1607年(慶長12年)で築城開始から一応の竣工までの期間の財務状況です。
これは案外建てなかった理由として、可能性があるかもしれません。気になるのは、福岡藩は慶長5年に豊前中津より筑前国へ転封する際に、年貢米を先取りし、そのために後で豊前に入国した細川藩との関係が悪化したという事件です。両者では軍事的な緊張が増して、黒田側では豊前国との国境に六端城といわれる主郭を石垣で巡らした支城網を構築します。また、先取りした年貢米は、国替えの作法を無視して黒田が行ったことから、分割して返済したとのことです。また、黒田長政は検知を行って表向き52万石で幕府に申告したが、前の領主の小早川氏の石高30万石より極端に増えており、水増し申告したのではないか、実際の経済力は低いという疑惑も持たれているようです。
このように、財政的な厳しい事情が築城時に影響し、いったん天守台石垣までは築いて、城郭としての防衛機能を構築し、天守建造の機を窺っていた。そのうち幕府の五重天守の規制が強まってしまい天守台規模相当の五重天守が建てられなくなってしまった・・・は、ありそうな気がします。


天守に関する具体的な口伝や伝承、記録がないから存在しない説
これは、現在は天守があったと考えている私も、前々から引っかかっていたことです。天守の存続した可能性があるのを十数年間とすると、約260年間の江戸期の中では極端に短い気がします。しかし、存在した十数年を城下で日常的に暮らしていた人は、相当期間目の前で見ているはずなので、子らに伝えたくなり、口伝なり日誌なりで天守の様子を残そうとするものだと思います。黒田藩の公式記録から意図的に天守のことが隠されていたとしても、城下の領民まで天守の存在の口封じはできないので、幕府を憚って無かったと伝承されていたことのほうが、口伝として信ぴょう性を帯びてきます。
反面で、近年、甲府城の天守台付近から大きな鯱瓦の破片の出土が発掘され甲府城に天守があったということがほぼ確実視されているようです。甲府城は福岡城と同様に天守の文献記録が乏しく、天守台のみ築かれた城と従来から思われてきました。具体的な口伝や伝承がなくても、考古学的に立証されるケースもあるわけですから、2025年に本格的に行われている福岡城天守台発掘調査に期待しています。
強風を受けやすい立地条件で、天守が存在したとは考えにくい説
福岡市に住んでいたころ、花見も含めて何回か福岡城を訪問したことがあります。玄界灘は風が強い海だという認識はありますが、福岡城で影響を及ぼすほどの強風を感じたことがありません。福岡城は梯郭式平山城に分類されています。正確な本丸の標高はわかりませんが、感覚的には丘レベルで、せいぜい数十メートルの高さだと思います。
もちろん、城内の最高所にあるので台風や落雷などの被害を最も受けやすい場所に在るとは思います。他の平山城の例を見れば、姫路城、熊本城レベルの丘陵では、五重天守を建造しています。強風のためというのは今一つ、違和感があります。
