豊臣兄弟ゆかりの名城を行く(2-④)  近江八幡山城

戦国古城の旅
近江八幡城下 八幡堀

訪問日 2025.9.8

今回、旅の目的地の一つ安土城に行くにあたって、9月上旬で暑さ厳しく安土駅からは歩きたくない。最小経費の行程でタクシーもレンタカーも使わず、うまく日程をこなす手段として、レンタサイクル利用を考えました。どこで借りるか、ネットで検索するうち安土駅の隣駅の近江八幡駅前でレンタサイクルの店舗があり、自転車を使えば近江八幡城から安土城まで2城を効率的に周れることに気づいたわけです。

鉄道を乗り継ぎ、JR近江八幡駅で下車、駅前のレンタサイクル屋さんを探して今日一日の愛車をゲットしました。(確か500円だったと思います)まずは八幡山城を目指します。ところで、借りる時に今更思ったのですが、私は実は30年以上自転車のハンドルを握った記憶がありません。最初は勘が戻らず、結構危なっかしいハンドルさばきで店舗を出たので、見送りのお店の方を心配させたかもしれません。なるべく最短距離を走り、10分くらいで城内と城下を隔てる八幡堀という観光スポットまで来ました。城跡のロープウエー駅はもう目の先にあります。

八幡堀には遊覧船があり、観光でゆっくり城下の風情を楽しみたい人たちにはお勧めです。

八幡堀を渡り右手にある立派な神社(日牟禮八幡宮)は時間節約にてスルーし、城山へのロープウェイ駅に到着します。城址の山上には瑞龍寺という寺があり、城郭時代の建築物を見ることはできませんが石垣と眺望を楽しむことができます。

八幡堀を渡ると右手に見えてくる日牟禮八幡宮。城目的の私はスルーしたが、一般観光客も訪れる由緒も確かな神社です。
ロープウエー下から山上駅を見る。さほど標高差はありませんが、山上からの景色へ期待も高まります。
ロープウェイの山上駅に着きました。料金は、2025年時でおとな : 片道540円、往復950円(こども : 片道270円、往復480円)15分間隔で運行していました。

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織田の安土城を廃し、八幡山に築かれた豊臣の新城

八幡山城について

八幡山城(はちまんやまじょう)は、滋賀県近江八幡市にある山城で羽柴秀次(後の関白 豊臣秀次)の居城として歴史に名を残しています。近江八幡城とも呼ばれており、自分もそのように覚えていましたが、地元では八幡山城と呼ぶので、その表記に統一します。城は、鶴翼山、通称八幡山(標高283m)の山上南半分に遺構が残されています。築城当時は東西に内湖があったそうで、南の平野部に城下町を配した構造は安土城に似ており、史実においても安土の城下町を移住させているので、安土城の後継といえる存在です。

八幡山城の歴史

北国及び東国から京都へ向かう街道が琵琶湖沿岸に走る近江国は、軍事・経済・交通の要衝であり安土城・佐和山城・彦根城などの名城が築かれてきました。1582年(天正10年)に起きた本能寺の変から、1583年(天正11年)賤ケ岳の戦いまで、歴史の歯車が短期間に羽柴(豊臣)秀吉を天下人に押し上げていきました。秀吉は1583年(天正13年)には紀州攻め・四国攻めの副将で武勲を上げた豊臣秀次に近江八幡43万石(うち宿老分23万石)を与えています。豊臣秀次は、それ以前に小牧長久手の戦いで徳川家康に完敗し、叔父の秀吉に一門の恥と厳しく叱責されていますが、紀州・四国攻めで信用回復に成功して、豊臣一門の重責を担い近江の国主として任用されることになりました。当時まだ18歳!の若年であったことから、秀吉が新たな近江国主の城となるべく八幡山城の普請や、山頂の縄張りに指示を細かく行ったようです。また、秀吉は麓の居館の整備、城下町の造営にも力を注ぎましたが、安土城の建物や城下町を移築することで対応したようです。

その後、豊臣秀次は入城5年で1590年(天正18年)尾張の国へ移封され、京極高次が2万8千石で入城しました。1595年(文禄4年)秀次事件が起きて、関白にまで立身した秀次は切腹となり、秀次ゆかりの八幡山城は築城から10年で廃城となり、城主の京極高次は大津城へ移りました。秀次が居を置いた京の聚楽第同様に秀次の記憶を留める、この八幡山城は存在を否定された哀しい城ということになります。

本丸下の通路(犬走り)から、本丸を見上げる。石垣の合間を破って樹木も繁茂し、放置された石垣や散乱した瓦片をみると、歴史に置き去りにされた古城の哀愁が漂います。

豊臣家継承者の居城の現在

八幡山城の主である豊臣秀次という人は、秀吉という「子を持たぬ天下人の甥」という特殊な立場に身を置いて人生を翻弄された人物です。秀次は庶民の生まれながら叔父の出世に伴って、幼少時から政略で有力者の養子に出され、自らの意思・能力とは関係なく姓氏を変えながら出世し、関白という官職の最高位まで昇進することになりました。悲劇的な最期を迎えることも併せて考えれば数奇な運命というべきでしょうか。実際「殺生関白」の悪名の真偽も含め興味深い人物です。

八幡山のロープウエーを山上駅で降りて、案内板に沿って歩くと程なく、二の丸経由で本丸まで到達しますが、本丸下の周囲を歩いて北の丸・西の丸という眺望の良い曲輪を先に行って見ました。

ロープウエイ駅から本丸方向に進む中途に二の丸がありますが、それほど広くない敷地にコンクリートの施設がありますが先に進みます。
二の丸から本丸方面に向かいますが、本丸内には入らず周囲を歩き回ることにしました。左は本丸石垣で北の丸へ向かいます。石垣は築城当時のままなのか自然石を積んだ野面積で勾配も直線的で緩く、安土城を想起させます。
本丸石垣下を周回して北の丸に到達しました。山城にしては面積が広めの曲輪です。
北の丸からの景観です。左側が琵琶湖方面になり、左上の「西の湖」の対岸に写る小山が安土城、その右奥の一段高い山が観音寺城。

北の丸から見ると、安土城は目と鼻の先というのがわかります。安土城を再利用せず廃城にして、代わりにこの地に新城を築いたのは、信長の後継者であることと同時に、織田家の簒奪者でもある豊臣(羽柴)氏の政治状況を示しているのでしょう。北の丸から西の丸へ通路に従い移動します。

西の丸から見た近江平野。写真方向は京・大阪方面ですが、展望も良く、この地が交通の要衝地に存在することが分かります。
上の写真の視界を右に向けると琵琶湖が間近に見下ろせます。湖上交通の監視もできる立地ということでしょう。

西の丸も山城にしては広い敷地があり、観光客もそれなりに訪問して下界を眺めています。これから上る本丸は寺院があるせいか、あまり眺望が開けておらず、周辺の景色を楽しむなら北の丸・西の丸を訪問することをお勧めします。

八幡山城本丸を訪問する

本丸入り口部分を上からみる。本丸跡は寺院になっており、本丸に入る山門が桝形虎口になっていて、城郭らしさを感じることができる。
本丸は瑞龍寺というお寺になっています。建物があるせいか、あまり広さは感じませんでした。
お寺には用向きがないので、あまり滞在せず失礼しました。

本丸周りを一周し、いよいよ本丸に入ります。現在は本丸内部はお寺の土地として、管理・整備されており、山門をくぐると城郭訪問とお寺に参拝という感じが混在してしまいます。
本丸敷地には瑞龍寺の建物があり、天守台の位置などの縄張り面が確認しずらい感がありましたので、早々に下山することにしました。天守については、Wikipediaより引用すれば発掘調査により「本丸と西の丸に接する西北隅に、15m四方の天守台があり天守がそびえていたと推定されている。」とされています。本丸周りの石垣は所々折れがありますが明確にどの部分が天守台部分なのか、はっきり確認できませんでした。

本丸と西の丸に接する隅の石垣はこのあたりですが、これは天守台でしょうか。わかりませんでした。

城郭建築は何もありませんが、苔むした石垣は築城当時のままであることが想起され、古城の趣を味わうには、充分の訪問でした。山上駅付近では観光客向けに所々で中国語音声が流れてきます。帰りのロープウェイに乗り、下山後安土城へと自転車で向かいます。

以下「豊臣兄弟ゆかりの名城を行く(2-⑤) 安土城編 に続きます。(現在執筆中)