熊本城宇土櫓はどこから移築されたのか|「第三の天守」の起源を検証

城郭構造・歴史考察


先に結論|宇土櫓はどこから移築されたのか
宇土櫓は三重五階地下一階の建物で、その規模から熊本城の「第三の天守」とも呼ばれています。出自については、小西行長の宇土城天守を移築したとする説、現在地で新築されたとする説、二重櫓に上層を増築したとする説など、複数の見方があります。

私は、宇土櫓は当初から三重五階の天守級建築として造られ、熊本城の前身である隈本城(古城)の天守を現在地へ移築した可能性が、最も高いと考えています。ただし、移築元を直接示す決定的な資料はなく、現段階では一つの仮説です。本記事では、保存修理と解体調査の結果、建物の規模、石垣、絵図などを比較し、この仮説を検証します。

熊本地震で被災した宇土櫓と復旧調査

2016年(平成28年)4月に発生した熊本地震では、熊本城も石垣の崩落や建物の倒壊など、甚大な被害を受けました。福岡県東部の我が家でも、これまで経験したことのない揺れと地鳴りを感じ、不安を覚えた記憶が残っています。

宇土櫓は倒壊を免れたものの、五階櫓が部分的に損壊し、南側の続櫓が全壊しました。2025年9月に解体保存工事が終了し、現在は2032年度の復旧完了を目指して復旧設計が進められています。解体に伴う調査の成果は、宇土櫓の構造や成立過程を考えるうえでも重要な手掛かりになります。

熊本城と宇土櫓の位置づけ
熊本城は、加藤清正が1588年(天正16年)に肥後へ入国した後、隈本城(古城)を改修し、茶臼山に新城の築城を進めて造り上げた平山城です。新城は1607年(慶長12年)に完成したとされ、1632年(寛永9年)に細川忠利が入城した後も、細川氏によって整備と改修が続けられました。

城内には、大天守・小天守のほか、天守に匹敵する規模の五階櫓が複数建てられていました。そのうち、江戸時代から現存する唯一の五階櫓が宇土櫓です。本丸西北側の平左衛門丸に位置し、三重五階地下一階という規模から「第三の天守」とも呼ばれています。

宇土櫓とは|「第三の天守」と呼ばれる理由

宇土櫓は、本丸西北側の平左衛門丸に建てられていた五階櫓です。三重五階地下一階、高さ19メートル、一階は九間×八間という大規模な建物で、一般的な櫓を超える規模と櫓から「第三の天守」とも呼ばれています。

「宇土櫓」という名称については、かつての宇土城主だった小西行長の旧家臣を櫓の近くに置いたことに由来するという説がありますが、確定していません。建物の創築年代や成立過程にも不明な点が残り、これまで主に次のような見方が示されてきました。

1.小西行長の宇土城天守を移築したとする説

2.保存修理の調査によって、宇土城からの移築説は否定的に見られるようになったという見方

3.当初は二重の櫓で、後世に上層を増築して三重五階になったとする説

4.現在の大天守台に建てられていた初代天守を移築したという説

5.熊本城の前身である隈本城(古城)の天守を移築したとする説

以下では、保存修理と解体調査の成果、建物の構造、石垣、絵図などを手掛かりに、これらの見方を順番に検討します。

宇土城天守移築説と保存修理による見直し

宇土城天守移築説はなぜ見直されたのか
宇土櫓を、小西行長が築いた宇土城の天守を移築したものとする説は、1772年(明和9年)に森本一瑞がまとめた地誌『肥後国誌』の記述によって広く知られるようになりました。しかし、これは宇土櫓の成立から相当な年数を経た記録であり、移築を直接示す同時代の史料ではありません。

1927年(昭和2年)の大規模修理や、その後の保存修理でも、宇土城からの移築を直接裏付ける証拠は確認されませんでした。このため、宇土城天守移築説は、現在では否定的に見られています。ただし、移築しなかったことを証明する決定的な証拠が見つかったわけではなく、完全に否定されたとまでは言い切れません。

一方、1990年(平成2年)刊行の『重要文化財熊本城宇土櫓保存修理工事報告書』では、創建を直接示す資料は見つからなかったものの、1598~1600年頃に熊本城内のどこかで建てられ、1607年頃に現在地へ移された可能性が示されています。
私は、小西行長の宇土城天守を移築した可能性は低いと考えていますが、熊本城内の別の場所から移築された可能性まで否定できないと考えています。

現在の宇土城本丸跡に残る石垣。小西行長が関ケ原の戦いで敗れた後、宇土城も落城し、加藤氏のもとで大規模に改修されました。宇土市の説明によれば、現在みられる遺構は基本的に加藤氏時代のものです。このため、この石垣だけから小西時代の天守の姿や、宇土櫓の関係を判断することはできません。

この記事は、前回熊本城 三の天守という宇土櫓の謎2に引き続いて、従来から様々な解釈がなされていた天守級の櫓である宇土櫓について考えてみたいと思います。今回は下記の③の説について述べていきます。

① 宇土櫓は小西行長の宇土城天守を移築したものであるという説。
② 昭和の解体修理で、①の移築は否定されたことになっていた。
③ 加藤氏時代の宇土櫓は二重二階だった。江戸時代に三重目が増築され(三重四階)その後、内部も改造されて三重五階櫓になったという説。
④ 宇土櫓は現在の大天守台に築かれた初代天守を移築したものであるという説
⑤ 宇土櫓は、隈本城時代の天守を移築したものであるという説

加藤氏時代の宇土櫓は二重二階だったのか

結論から言うと、現存している宇土櫓は最初から三重五階建築であり、城内にあった旧天守の移築であると私は考えています。ただし、創建時は現位置に現在の宇土櫓が移築される前で二重二階(又は三階)の別の櫓があった可能性はあると思います。

宇土櫓二重二階説の内容について
wikipediaでの解説は、「平成元年(1989年)の修理の際、2重目と3重目の建築方法の違いと3階部分の増設が判明している。このため当初は二層二階(地下一階)で建設され、三層四階に増築され更に三層五階に改められたとされている。(引用元 wikipedia)」とあります。また、1994年発刊の「歴史群像・名城シリーズ②熊本城(©(株)学習研究社)」では宇土櫓写真の説明に「熊本城が完成した慶長12年(1607年)ころには外観二重(層)であり「一国一城令」が発令された元和元年頃(1615年)に、高欄付きの望楼を載せて今の形の外観三重(層)になったと思われる」と記載されています。また、この書籍では「検証「熊本図」にみる加藤氏時代の天守、小天守、櫓」の稿で「熊本図」に書かれた建物群を北野隆先生が詳細に検討されており、「熊本図」の信憑性を検討された上で加藤氏時代の宇土櫓は二重であったと明言されています。

震災前の宇土櫓を撮影できたのは本当にラッキーでした。内部の写真も撮っておくべきだったと後悔です。櫓台の石垣は高さが25mあるそうです。1階平面の大きさは9間×8間あり五重の松本城天守とほぼ同じ大きさになります。
震災後熊本城の戌亥櫓。宇土櫓が仮に二重櫓だったらこんな形状でしょうか。5間×3間程度の規模感なら二重櫓で納得ですが、9間×8間規模の宇土櫓が二重二階櫓というのは違和感が強いのです。
現存の最大の二重櫓といえば、大阪城の千貫櫓です。1階平面の大きさは8間×7間で熊本城宇土櫓より一回り小さい規模です。この平面規模で二重二階櫓を建てるとなると二階屋根の軒の出を小さくしないと屋根裏階ができる(すなわち3階になる)ため、この千貫櫓のような形状になると思うのですが、熊本城の二重櫓は戌亥櫓のような望楼型ばかりで、このような層塔式の二重櫓は確認されていないのも私が二重二階説に異を感じる点です。

宇土櫓二重二階説に疑問のある理由
・隅櫓にしては大きすぎる1階平面
宇土櫓の一階平面は9間×8間(約18m×15m)で、これに近い規模の二重櫓は大阪城の千貫櫓くらいしか思いつきません。宇土櫓の外観上の構成を見てみると天守を含めて他の熊本城内の三重櫓と良く似た形状をしており、最初から三重の建物を想定している外観のようにしか見えないことから、当初二重で三重目を後に増築したというのは大きな違和感を感じてしまいます。
・解体修理の報告について
城郭の現存建築物はその保存と学術調査のため、解体修理が行われます。宇土櫓も例外なく江戸時代から何度も修理が繰り返されてきています。解体修理の結果で当初二重の建物の上があり、後年に望楼部を載せて3重にしたと判明したと云われていたものに犬山城天守があります。望楼の無い天守は自分が知る限り越前大野城(現在の復興天守でない絵図の物)だけだったので、これもずっと疑問に思っていたのですが、近年、年輪調査法で検証すると、ほぼ同時期に1階から望楼部の4階まで建てられていたことが判明しています。つまり最初から3重だったことが示されています。解体修理から得られた断片的な情報から、増築論が推定されるのでしょうが、解体修理報告が常に正しい結論を導かない例もあるようです。

「重要文化財熊本城宇土櫓保存修理工事報告書」(平成2年)によると修理の中で創建を直接示すものは発見できなかったが、調査の結果慶長3年~5年(1598~1600年)頃、熊本城内で創建され、慶長12年(1607年)頃に現在の位置に移築されたと推定されているそうです。(引用:熊本城復旧シンポジウム 宇土櫓を解く~解体調査成果から見える歴史~)

・絵図の信憑性について
前述の学習研究社書籍の「熊本図にみる加藤氏時代の天守、小天守、櫓」の稿で示された「臼杵市図書館蔵」の「熊本図」に書かれた建物群というのは、臼杵藩士が描いたもので、熊本城の建物の実際の位置と絵図の位置が良く照合し信用できるとされています。ただし、私が書籍の図を見る限り確かに建物位置は照合しても形の描写は簡略に表現されたイラストレベルの表現であり、五重天守を除くその他の建物は単層か多重かを分かりやすく区分けして描いたもの程度にしか見えません。すなわち、櫓は平櫓以外は全部二重で簡略に表現したのかもしれません。
また、熊本城の絵図で詳細に描いたものが江戸時代にありますが、今度は宇土櫓を外観4重に描いた作品もあったりするので、私は明治以前の絵図の外観の信憑性については、かなり懐疑的です。

・現在の宇土櫓は当初からそこにあったのか
宇土櫓が建てられている櫓台の石垣は、約25mあるそうです。この櫓台石垣の東側(小天守方向)は石垣が二段になっています。このため、宇土櫓台から小天守台辺りまでは現在でも石垣が二段になり上石垣と下石垣の間に細長い空間が存在しています。この空間は縄張り的には余り意味をなさないように考えられます。私は、このようになったのは、築城当時は25mの高石垣を延々と築いていく土木工事が困難だったからだと考えています。このため、現代の宇土櫓台は築城当初の建物ではなく、後年の改造(慶長7年頃か)により築造された石垣に移築されて載せられた建物ではないかと考えています。この場合、築城当初、現位置に別の二重櫓があった可能性はあると思います。

北側から見た宇土櫓台。平左衛門丸から突き出した形で櫓台を築き、下段の石垣と一体になっています。よって筆者は宇土櫓台は西側の宇土続櫓石垣まで含めて、後期工事での積み足し石垣と考えています。
写真は仙台城本丸詰門の脇櫓(三重櫓)のあった高石垣。この石垣は伊達政宗築城当時のものではなく、江戸期の地震崩落後に旧石垣の上に被せて築いたものであると判明しています。城郭の高石垣の場合は、築城期から幕末までに積直しや補修を受けることが多い例です。

▶熊本城三の天守といわれる宇土櫓の謎4へ続きます

この記事は、前回 熊本城 三の天守という宇土櫓の謎3に引き続いて、従来から様々な解釈がなされていた天守級の櫓である宇土櫓について考えてみたいと思います。

今回は下記の④の熊本城初代天守説について述べていきます。

① 宇土櫓は小西行長の宇土城天守を移築したものであるという説。
② 昭和の解体修理で、①の移築は否定されたことになっていた。
③ 加藤氏時代の宇土櫓は二重二階だった。江戸時代に三重目が増築され(三重四階)その後、内部も改造されて三重五階櫓になったという説。
④ 宇土櫓は現在の大天守台に築かれた初代天守を移築したものであるという説
⑤ 宇土櫓は、隈本城時代の天守を移築したものであるという説

宇土櫓はどこから運ばれてきたのか?

宇土櫓が、現在の宇土櫓台に創建されたものでないとすれば、いずこから移設されてきた建物なのでしょうか。
関ケ原の合戦後に肥後一国を支配するようになった加藤清正が、天守を国主にふさわしい五重にするため、大天守台の上に建てられていた三重天守を現在の位置に移設したという考え方はどうでしょうか。

現在の復興された大天守(一の天守)。天守台石垣の上に五重の建物が載せられていますが、1階は天守台石垣からはみ出しています。

現在の大天守台と、現天守及び宇土櫓の初層平面を比較してみましょう。
宇土櫓の1階平面  長辺9間に短辺8間
現大天守1階平面  長辺13間に短辺11間
現在の天守台平面  長辺12間に短辺10間
天守台を基準に考えると大天守は大きすぎ、宇土櫓は小さすぎることになります。
天守台平面が建物1階より大きいと、石垣上には余分な空地ができます。例としては豊臣秀吉の大阪城、蒲生氏郷の会津若松城があります。

蒲生氏郷の天守台に立つ会津若松城(鶴ヶ城)天守。東北地域唯一の五重天守ですが、天守台石垣は異様に大きく7重天守説を生み出す一因にもなっています。恐らくは豊臣秀吉の大阪城の天守を模倣し、石垣の端部に過度の重量が掛らないよう天守台に余地を残して建てたのだろうと考えています。

仮に熊本城旧天守が、天守台から空間の余地を残して建てられていたとしたらメリットは何かあるのでしょうか。
考えられるのは、建物の安定性ということでしょう。例えば地震が起きれば、過度の建築重量を抱えた石垣の端部は崩壊しやすく、建物ごと崩れ落ちてしまいます。

熊本地震で崩落した五間櫓台の石垣。石垣の崩落に従って上の櫓も被災した。
同位置の震災前写真。左上に震災前の五間櫓が石垣上に存在していたことが分かります。

熊本城が城域の南西にある「古城」エリアから、現在の「本城」エリアである茶臼山台地へ移る着手を始めたのは、1599年(慶長4年)頃からと考えられており、1600年(慶長5年)頃には天守が完成したとされています。(熊本城公式HPより引用。諸説あり。)
五重天守として最初期の時代に建造された大坂城(1585年 天正13年)は、恐らく大重量の天守をそのまま高石垣に載せるのは不安があったため、石垣の端から離して建物を載せたと思われます。1593年(文禄2年)に築かれた会津若松城五重天守もこれに倣ったものと思われます。
熊本城の天守台の石垣は、反りが大きく算木積が全く見られない古式なもので、本城の中でも最も古いものであると考えられますが、それでも1599年頃と推定されているようです。
この熊本城天守台が造営された頃はすでに、日本各地で次々と大型の五重天守(名護屋・伏見・岡山・広島城)も造営されているので、規模の小さな三重天守(宇土櫓の前身建物か)をわざわざ残地を残して建てる技術的な理由は無いように思われます。逆に1600年頃完成といわれる熊本城五重天守は石垣からはみ出しています。

そうなると、古城といわれた隈本城の不要になった天守を移設した可能性が高いように思うのです。

二重目と三重目に庇屋根を付けると5重の熊本天守と同じ建築構成になります。この宇土櫓を大きく発展させると現天守になることから、宇土櫓の初代天守説に信憑性をもたらします。


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この記事は、前回④の 熊本城 三の天守という宇土櫓の謎4に引き続いて、従来から様々な解釈がなされていた天守級の櫓である宇土櫓について考えてみたいと思います。

今回は下記のの隈本城天守移築説について述べていきます。

① 宇土櫓は小西行長の宇土城天守を移築したものであるという説。
② 昭和の解体修理で、①の移築は否定されたことになっていた。
③ 加藤氏時代の宇土櫓は二重二階だった。江戸時代に三重目が増築され(三重四階)その後、内部も改造されて三重五階櫓になったという説。
④ 宇土櫓は現在の大天守台に築かれた初代天守を移築したものであるという説
⑤ 宇土櫓は、隈本城時代の天守を移築したものであるという説

このシリーズのリンクはこちら
読み始めは、熊本城 三の天守という宇土櫓の謎 1
①②は熊本城 三の天守という宇土櫓の謎 2
③は熊本城 三の天守という宇土櫓の謎 3

隈本城について

1.隈本城とは

熊本城は広さは約98ヘクタール(約98万m2)、周囲は約5.3kmあります。これだけ広いのは、南西の「古城」と北東の「千葉城」を取り込み、それらを出丸としているのも一因です。古城と呼ばれているエリアは名称の通り、熊本城の前身である「隈本城」があったところです。古城は熊本城の南端にある南北に細長い台形の郭で、鹿子木親員が室町期(16世紀前半)に隈本城として築城した場所であり、その後もこの場所を佐々成政や加藤清正も肥後統治の拠点としていました。豊臣秀吉が九州征伐の道中で隈本城を名城と評価していることから肥後統治に相応しい城が存在していたことが伺われます。加藤清正が入部した時の地図では坪井川沿いに三層の天守(他に二層の櫓二基)あったということで、佐々成政が城主の一年足らずの内に織豊系城郭として整備していたかもしれません。
なお、この三層天守の記述はウイキペディアの「熊本城」の記述欄からの引用ですが、私はその地図を実見していないので佐々成政時代に天守があったのか否かは判断できません。現存している宇土櫓の屋根の破風は直線的でむくりもあり、他の熊本城内の櫓と共通している仕様なので、私は隈本城天守は加藤清正による創建であろうと考えています。

熊本城本丸の大天守最上階から古城(隈本城)方面を見る。位置的には二の丸駐車場の左側。画面左側上部の市街地ビルに近い所(城域の左奥・ビル群の手前、高校のグラウンドが小さく見えるあたり)かと思われます。

熊本城天守と隈本城天守

仮に宇土櫓が、古城(隈本城)にあった天守(清正創建)を前身とすると、いつの段階で現位置(本城内の平左衛門丸)に移されたのでしょうか。前任者の佐々成政は国衆一揆の対応に追われた挙句1588年(天正16年)には切腹を命じられていますから、この頃にすでに天守まで在ったかについて疑問があります。佐々成政の死後、加藤清正が隈本城に入城し、1591年には茶臼山丘陵一帯に築城を開始しています。その後、1592年に清正は朝鮮半島に出兵しており、熊本築城は、城主不在の間も続けられていたと思われます。このときの、築城工事が隈本城(古城)の改修工事か、現在の熊本城の本城部分(本丸周辺の郭と西出丸)なのかがはっきり分らないため判断が難しくなっています。

いずれにしても、熊本築城は本丸及び天守から優先的に行われたと考えられます。現在の茶臼山にある天守(熊本城)が1601年(慶長六年)に竣工したというのが定説ですので、外郭を含む熊本城域(本城と古城)には一時的に新旧2基の天守が存在したということでしょうか。(なお宇土城からの移築説がある小天守は1609年(慶長14年)頃といわれています。新旧二つの天守が別途独立して存在する城で思い浮かぶのは豊臣氏大坂城と米子城です。)
茶臼山新城の築城と並行して隈本城の出丸化の工事も行われ、縄張りに大幅な変更と普請が加えられた思われます。この際、隈本城(古城)の天守台は取り壊され天守もいったん解体されたと推理します。
それが、現在ある宇土櫓の櫓台が構築された時期(熊本城大天守築造より後年)と重なるなら時期的には最もタイミングが良いのですが、それを証する明確な資料はないようです。
宇土櫓の櫓台を見ると、算木積といわれる石垣隅部がみられるため、現在の本丸天守台の石垣より年代が新しいことが推定されます。
現天守台が築かれ天守が竣工したのが関ケ原後の1601年頃といわれているので、現宇土櫓の移築はそれ以降になり、古城に存在していた旧天守は古城の出丸改変に伴って、移築されたと考えています。

宇土櫓の櫓台石垣は隅部を長方形の石を交互に積み上げる「算木積」の高石垣で本丸の天守台より新しいものと考えられています。

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今回は下記のの隈本城天守移築説について述べていきます。

① 宇土櫓は小西行長の宇土城天守を移築したものであるという説。
② 昭和の解体修理で、①の移築は否定されたことになっていた。
③ 加藤氏時代の宇土櫓は二重二階だった。江戸時代に三重目が増築され(三重四階)その後、内部も改造されて三重五階櫓になったという説。
④ 宇土櫓は現在の大天守台に築かれた初代天守を移築したものであるという説
⑤ 宇土櫓は、隈本城時代の天守を移築したものであるという説

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③は熊本城 三の天守という宇土櫓の謎 3

隈本城について

1.隈本城とは

熊本城は広さは約98ヘクタール(約98万m2)、周囲は約5.3kmあります。これだけ広いのは、南西の「古城」と北東の「千葉城」を取り込み、それらを出丸としているのも一因です。古城と呼ばれているエリアは名称の通り、熊本城の前身である「隈本城」があったところです。古城は熊本城の南端にある南北に細長い台形の郭で、鹿子木親員が室町期(16世紀前半)に隈本城として築城した場所であり、その後もこの場所を佐々成政や加藤清正も肥後統治の拠点としていました。豊臣秀吉が九州征伐の道中で隈本城を名城と評価していることから肥後統治に相応しい城が存在していたことが伺われます。加藤清正が入部した時の地図では坪井川沿いに三層の天守(他に二層の櫓二基)あったということで、佐々成政が城主の一年足らずの内に織豊系城郭として整備していたかもしれません。
なお、この三層天守の記述はウイキペディアの「熊本城」の記述欄からの引用ですが、私はその地図を実見していないので佐々成政時代に天守があったのか否かは判断できません。現存している宇土櫓の屋根の破風は直線的でむくりもあり、他の熊本城内の櫓と共通している仕様なので、私は隈本城天守は加藤清正による創建であろうと考えています。

熊本城本丸の大天守最上階から古城(隈本城)方面を見る。位置的には二の丸駐車場の左側。画面左側上部の市街地ビルに近い所(城域の左奥・ビル群の手前、高校のグラウンドが小さく見えるあたり)かと思われます。

熊本城天守と隈本城天守

仮に宇土櫓が、古城(隈本城)にあった天守(清正創建)を前身とすると、いつの段階で現位置(本城内の平左衛門丸)に移されたのでしょうか。前任者の佐々成政は国衆一揆の対応に追われた挙句1588年(天正16年)には切腹を命じられていますから、この頃にすでに天守まで在ったかについて疑問があります。佐々成政の死後、加藤清正が隈本城に入城し、1591年には茶臼山丘陵一帯に築城を開始しています。その後、1592年に清正は朝鮮半島に出兵しており、熊本築城は、城主不在の間も続けられていたと思われます。このときの、築城工事が隈本城(古城)の改修工事か、現在の熊本城の本城部分(本丸周辺の郭と西出丸)なのかがはっきり分らないため判断が難しくなっています。

いずれにしても、熊本築城は本丸及び天守から優先的に行われたと考えられます。現在の茶臼山にある天守(熊本城)が1601年(慶長六年)に竣工したというのが定説ですので、外郭を含む熊本城域(本城と古城)には一時的に新旧2基の天守が存在したということでしょうか。(なお宇土城からの移築説がある小天守は1609年(慶長14年)頃といわれています。新旧二つの天守が別途独立して存在する城で思い浮かぶのは豊臣氏大坂城と米子城です。)
茶臼山新城の築城と並行して隈本城の出丸化の工事も行われ、縄張りに大幅な変更と普請が加えられた思われます。この際、隈本城(古城)の天守台は取り壊され天守もいったん解体されたと推理します。
それが、現在ある宇土櫓の櫓台が構築された時期(熊本城大天守築造より後年)と重なるなら時期的には最もタイミングが良いのですが、それを証する明確な資料はないようです。
宇土櫓の櫓台を見ると、算木積といわれる石垣隅部がみられるため、現在の本丸天守台の石垣より年代が新しいことが推定されます。
現天守台が築かれ天守が竣工したのが関ケ原後の1601年頃といわれているので、現宇土櫓の移築はそれ以降になり、古城に存在していた旧天守は古城の出丸改変に伴って、移築されたと考えています。

宇土櫓の櫓台石垣は隅部を長方形の石を交互に積み上げる「算木積」の高石垣で本丸の天守台より新しいものと考えられています。

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今回は下記のの隈本城天守移築説について述べていきます。

① 宇土櫓は小西行長の宇土城天守を移築したものであるという説。
② 昭和の解体修理で、①の移築は否定されたことになっていた。
③ 加藤氏時代の宇土櫓は二重二階だった。江戸時代に三重目が増築され(三重四階)その後、内部も改造されて三重五階櫓になったという説。
④ 宇土櫓は現在の大天守台に築かれた初代天守を移築したものであるという説
⑤ 宇土櫓は、隈本城時代の天守を移築したものであるという説

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③は熊本城 三の天守という宇土櫓の謎 3

隈本城について

1.隈本城とは

熊本城は広さは約98ヘクタール(約98万m2)、周囲は約5.3kmあります。これだけ広いのは、南西の「古城」と北東の「千葉城」を取り込み、それらを出丸としているのも一因です。古城と呼ばれているエリアは名称の通り、熊本城の前身である「隈本城」があったところです。古城は熊本城の南端にある南北に細長い台形の郭で、鹿子木親員が室町期(16世紀前半)に隈本城として築城した場所であり、その後もこの場所を佐々成政や加藤清正も肥後統治の拠点としていました。豊臣秀吉が九州征伐の道中で隈本城を名城と評価していることから肥後統治に相応しい城が存在していたことが伺われます。加藤清正が入部した時の地図では坪井川沿いに三層の天守(他に二層の櫓二基)あったということで、佐々成政が城主の一年足らずの内に織豊系城郭として整備していたかもしれません。
なお、この三層天守の記述はウイキペディアの「熊本城」の記述欄からの引用ですが、私はその地図を実見していないので佐々成政時代に天守があったのか否かは判断できません。現存している宇土櫓の屋根の破風は直線的でむくりもあり、他の熊本城内の櫓と共通している仕様なので、私は隈本城天守は加藤清正による創建であろうと考えています。

熊本城本丸の大天守最上階から古城(隈本城)方面を見る。位置的には二の丸駐車場の左側。画面左側上部の市街地ビルに近い所(城域の左奥・ビル群の手前、高校のグラウンドが小さく見えるあたり)かと思われます。

熊本城天守と隈本城天守

仮に宇土櫓が、古城(隈本城)にあった天守(清正創建)を前身とすると、いつの段階で現位置(本城内の平左衛門丸)に移されたのでしょうか。前任者の佐々成政は国衆一揆の対応に追われた挙句1588年(天正16年)には切腹を命じられていますから、この頃にすでに天守まで在ったかについて疑問があります。佐々成政の死後、加藤清正が隈本城に入城し、1591年には茶臼山丘陵一帯に築城を開始しています。その後、1592年に清正は朝鮮半島に出兵しており、熊本築城は、城主不在の間も続けられていたと思われます。このときの、築城工事が隈本城(古城)の改修工事か、現在の熊本城の本城部分(本丸周辺の郭と西出丸)なのかがはっきり分らないため判断が難しくなっています。

いずれにしても、熊本築城は本丸及び天守から優先的に行われたと考えられます。現在の茶臼山にある天守(熊本城)が1601年(慶長六年)に竣工したというのが定説ですので、外郭を含む熊本城域(本城と古城)には一時的に新旧2基の天守が存在したということでしょうか。(なお宇土城からの移築説がある小天守は1609年(慶長14年)頃といわれています。新旧二つの天守が別途独立して存在する城で思い浮かぶのは豊臣氏大坂城と米子城です。)
茶臼山新城の築城と並行して隈本城の出丸化の工事も行われ、縄張りに大幅な変更と普請が加えられた思われます。この際、隈本城(古城)の天守台は取り壊され天守もいったん解体されたと推理します。
それが、現在ある宇土櫓の櫓台が構築された時期(熊本城大天守築造より後年)と重なるなら時期的には最もタイミングが良いのですが、それを証する明確な資料はないようです。
宇土櫓の櫓台を見ると、算木積といわれる石垣隅部がみられるため、現在の本丸天守台の石垣より年代が新しいことが推定されます。
現天守台が築かれ天守が竣工したのが関ケ原後の1601年頃といわれているので、現宇土櫓の移築はそれ以降になり、古城に存在していた旧天守は古城の出丸改変に伴って、移築されたと考えています。

宇土櫓の櫓台石垣は隅部を長方形の石を交互に積み上げる「算木積」の高石垣で本丸の天守台より新しいものと考えられています。

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