明智光秀最後の城として知られる勝龍寺城。実際に歩いてみると、この城の魅力はそれだけではありませんでした。
勝龍寺城は
・国内最初期の「天主」の記録がある。
・織田信長が細川藤孝に命じた当時最新鋭の城郭である。
・今は公園として非常によく史跡整備され、初心者でも楽しめる城。
この城は、近年の研究では、1573年の史料に「天主」(天守)の記述が確認され、安土城以前に瓦・石垣・天守を備えた先進的な城だった可能性が注目されています。
基本情報とアクセス
| 所在地 | 京都府長岡京市勝竜寺13-1 |
| アクセス | JR長岡京駅から徒歩10分程度 |
| 資料館入館料 | 無料 |
| 開園時間 | 午前9時から午後5時(4月から10月は午後6時) 休園日 無休(12月28日から1月4日を除く) |
| 駐車場 | 勝龍寺公園駐車場(数台)、市のHPでは周辺駐車場利用を勧めています。 |
JR長岡京駅から城へ向かう
大阪方面から京都方面への鉄道旅はJRの新快速利用が多く、長岡京駅はこれまで通過駅でしたが今回初めての下車しました。駅から城までは徒歩10分程の距離です。長岡京駅前から「ガラシャ通り」という車道を南に歩いていきます。
「ガラシャ通り」では右に工場街、左手に小学校が見えてきます。
静かな街並みです。そこを通り過ぎると、住宅の多いエリアになり、ここらが市民の住宅街の真ん中にあるとわかります。
しばらく歩くと、左手に「勝龍寺城土塁・空堀跡」の案内板を目にすることができます。
ひとまず帰りに寄ることにして、勝竜寺城公園の場所確認のためガラシャ通りを進みます。
この辺りは人や車の往来も少ない住宅地です。
穏やかな町並みからは、天下を揺るがした武将が最後の夜を過ごした場所とは、とても思えませんでした。
勝竜寺城公園を確認したところで、近くの蕎麦店「Ken Gyu 牽牛」で昼食をいただきました。汗だくの体に冷たい蕎麦と緑茶が染みわたり、旅先で思いがけず美味しい店に出会えたのも城歩きの楽しみです。腹ごしらえを終えて、今回の旅のもう一つの目的だった「初期天主」の痕跡を求めて城へ向かいます。まずは、多少戻り道になりますが外郭の土塁と堀から見ることにしました。

勝龍寺城外郭の土塁・堀を見る
藪に包まれた土塁と空堀

ガラシャ通りから看板に沿って、神足神社方向へ入ると勝龍寺城の外郭の防御施設を見ることができます。発掘されて数十mの長さで復元された空堀と土塁はフェンスに囲まれており、説明板も設置されています。写真で見ると分かりますが、初夏の雑草が生え茂り、その全貌が見えづらくなっています。昨日訪問した大溝城の本丸周りを少し思い出しました。この遺構全体を見るには冬の訪問がおすすめです。

この外郭の遺構は、信長が足利義昭を奉じて入京した後、細川藤孝に命じて勝龍寺城を改修した際に、城下町を囲うように設けられた外郭の一部です。藪の中を覗いてみると高さ(深さ)は、見たところ5~6メートル位でしょうか。

このように本城(本丸や二の丸など)を城下町ごと囲って守る総構えの城は、豊臣秀吉の小田原城籠城戦後に全国の大名間で急速に普及していったものと私は考えています。
細川時代にすでに建てられていた天主といい、この外郭にしても勝龍寺城が当時最先端の城として築城されていたことが分かる遺跡でした。
ここから、城跡のある勝竜寺城公園へ歩きます。
勝竜寺城公園へ
ほんの少し歩くと城跡の勝竜寺城公園に着きます。ここは先ほどの外郭と比べて素晴らしい公園管理がされていました。堀で囲まれた城内はさほど広くはありませんが、散策するにはちょうど良い広さです。
資料館に入る前に城内を探索します。
勝龍寺城について
勝龍寺城は、室町時代から存在したようですが、現在見られるような構造の城になったのは、1571年(元亀二年)の細川藤孝の改修によるものです。細川藤孝は、はじめは室町幕府の13代将軍足利義輝に仕えましたが、その死後は織田信長の協力を得て、15代将軍・足利義昭の擁立に尽力しました。その後、義昭が信長により追放されると、信長に従って名字を長岡に改め、勝龍寺城主を経て豊臣時代には丹後宮津11万石の大名となります。かつて足利将軍に仕えていた点では、明智光秀と境遇が同じで、藤孝の嫡子忠興は明智光秀の娘を娶り、姻戚関係にありました。細川と明智は強い関係性を持っていましたが、本能寺の変以降、明確に明智方に付かなかったことが大名家としての存続と飛躍につながったことになります。
この勝龍寺城は、方形の本丸を中心にいくつかの曲輪を配し、築城時は最新式の桝形虎口を石垣で築造するなどの安土城が築かれる前に先行する先端技術の城でした。また、古記録によれば「殿主」(=天守)があったことが記されており、これも安土城以前の、天守建築が形成されていった先行事例(旧二条城・岐阜城・坂本城)の一つと考えられます。

勝龍寺城内を歩く
・堀周りの土塁について
勝龍寺城は平地にある城ですが、堀周りに土塁が築造され、城外に向けて塀と隅櫓が模擬的に復元されています。模擬復元の建築物ですが、時代考証がリアルにされており、特に隅櫓が質素な切妻造りの屋根を持つ単層の建物で、かえって近世城郭のクラシカルな姿を表現しているようで見ごたえがあります。


・石垣について
写真の石垣は、発掘調査で検出された本丸の北西隅の虎口のものです。
その構造は石垣による桝形虎口といわれるもので、信長時代にはすでに家臣団の城にまで整備されていたことが分かります。


・北門について
この石垣がある場所は北門と呼ばれる位置にあります。明智光秀が最後にくぐった城門跡です。


北門といっても、門を含めた建築群が残っているわけではありません。しかし、羽柴秀吉との戦いに敗れた明智光秀は、勝龍寺城からこの北門を抜け本拠地の坂本城を目指したと伝えられています。
光秀は、最も頼みとしていた細川藤孝・忠興父子の助力を得られないまま、闇の中へ城を後にしました。結果として、ここが光秀が最後に通った城門となったのです。
・転用石について
織田や豊臣時代の、近畿地方の戦国大名の城の特徴の一つに、寺社の石造物を徴用して城の石垣に転用した事例があります。
☛大和郡山城はこちら
☛福知山城はこちら
☛安土城はこちら

城の発掘調査で見つけられた、石造物が屋外展示されていました。これらは石垣に転用されていたものです。石材不足を補う実用的な目的が第一だったのでしょう。 しかし、寺社勢力がなお、大きな影響力を持っていた時代に、信仰の対象である石仏や五輪塔を城の石垣に転用した事実には、実用性だけでは説明しきれないものも感じます。
そこには、従来の宗教的権威を超えて、武家こそが新たな支配者であると示す意図もあったのではないでしょうか。転用石は、信仰と武力の力関係が大きく変わろうとしていた戦国時代を象徴しているように思えました。
・復元櫓について
写真で紹介している模擬復元の櫓ですが、城内からは盛土して櫓台を築いたうえで建ててあります。このため平櫓であっても、城外側からは鉄砲・弓矢を相応の高さから撃ち降ろされる感じになります。

・資料館
勝竜寺公園内は、丁寧な管理が施されていました。なかでも資料館は、勝龍寺城の歴史を知ることができます。夏場の暑い時期や真冬の訪問を考えると、無料で空調の整った施設があるのは、大変ありがたいと感じます。戦国乱世を生き抜いた細川藤孝・玉(ガラシャ夫人)・忠興・明智光秀の生涯を辿るパネル展示を見ることができますので、この城を巡る歴史的な背景を知ることができます。

この資料館で、この城が安土築城前にここまで畿内で城郭づくりの技術は進んでいたのかと知りました。
国内最初期の天守とは
勝龍寺城には、実際には天守が残っていません。しかし、1573年(天正元年)の歴史資料には『天主』の記録があり、天主において、細川藤孝・里村紹巴が両吟連歌興行を行ったことが記されています。1574年(天正二年)にも「殿主」において、公家との文化交流が行われていた記録があり、安土城天主が築かれた1576年(天正四年)以前に天守が存在していたこと、その使途が文化交流ができる場で、すなわち居住性が確保されていたことが分かります。
天主のあった場所について
本丸は東西約120m、南北約80mの長方形で、天守の土台となる天守台の位置も想定しやすく、最近の研究では本丸の西辺に築かれた土塁の南側が本丸内で一番高く、 「殿主」または「天守」のあった可能性が指摘されています。この土塁(旧天守台?)に登ってみました。

本丸から近年整備されたと思われる、緩い石段を登ります。10メートル程度の高さでしょうか、ベンチのある平坦地に到達します。

雑草の無いよく手入れのされた櫓台につきました。平坦地の形状は細長の長方形で、我々の知る天守台のイメージからは若干離れています。

この櫓台が天守台と想定されるのは、写真の通り方形の本丸から若干はみ出ており、堀と土塁に群がる敵に横矢が効く戦略的に最重要な位置にあることにあります。確かにこの位置は本丸守備の要の位置にあるのが分かります。
この時代の天守は、安土城の天守と比べれば明らかに小さいものと想定され、おそらく2重か3重の建物であったと想定されます。
防御面で最重要の位置に「天守」を置くというのは理解できるものの記録による勝龍寺城の「天主」の使途が文化交流という点からして、ここに天主があったとも断定しづらいのも分かる気がします。もちろん、櫓のような軍事施設はあったものと思います。
記録に残る勝龍寺城の天主は、軍事施設であるだけでなく、連歌や公家との交流にも使われた建物でした。
そう考えると、必ずしも独立した天守台の上にそびえる、後世の天守と同じ姿だったとは限りません。
私は、本丸御殿に近接し、政治や文化交流の場として使われる重層建築だった可能性もあるのでないかと考えました。
機能だけ見れば、かつて会津若松城本丸御殿の近くに建ち、政治的・儀礼的な用途を持っていた「御三階」を連想します。もちろん、勝龍寺城天主から若松城御三階へ直接つながる系譜を示す史料はありません。それでも、天守が純粋な戦闘施設へ定型化する以前には、御殿と結びついた多様な重層建築が存在したのではないでしょうか。
☞会津若松城の御三階の記事はこちらへ

一体、天主はどこにあったのか。位置や姿にはなお謎は残りますが、史料上、この城に「天主」または「殿主」と呼ばれる建物が存在したことは確かです。瓦・石垣・天守を備えた近世城郭の始まりは安土城ばかりでないことを知らせてくれるのです。
明智光秀最後の夜
天正10年(1582年)6月13日。山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた明智光秀は、わずかな手勢とともに勝龍寺城へ退きました。
私は植栽や庭園の手入れが行き届いた城内を歩いていると、この穏やかな公園の風景から天下を揺るがした武将が、ここで敗戦の現実を受け止めていたとは、とても想像できませんでした。
光秀は、長くこの城に留まることはできず、夜陰に紛れて勝龍寺城を脱出します。北門から城を出て本拠地の坂本城を目指しましたが、その途中、小栗栖というところで土民の襲撃を受け、命を落としたと伝えられています。
勝龍寺城は、細川忠興と妻の玉(後のガラシャ)が暮らした城でもあります。娘が幸せに過ごしたゆかりの地へ戻った父・光秀は、どのような思いで、ここを去っていったのでしょうか。迫りくる追手の秀吉軍の脅威に迫られた心情を察すると、公園整備されたこの城の穏やかさが、逆に胸に迫ってきます。

勝龍寺城は、光秀にとって「最後の城」であると同時に、「天下の夢が終わった場所」でもありました。
北門の後に立つと、そこから闇夜へ消えていった光秀の姿を思わず想像してしまいます。城を歩いた最後にこの場所を訪れると、勝龍寺城が単なる史跡ではなく、一人の武将の運命が大きく暗転した舞台だったことを実感しました。

大溝城では、戦国の城づくりに思いを巡らせましたが、勝龍寺城では一人の武将の人生の終幕に思いを巡らせる旅となりました。
静かに遺構を残す大溝城と、多くの人が庭園を楽しみながら歴史に触れられる勝龍寺城。
同じ戦国末期の城でありながら、その魅力の伝え方は対照的でした。

