豊臣兄弟ゆかりの名城を行く 大和郡山城

戦国古城の旅
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訪問日  2025年9月上旬 晴天日

大和郡山城を行く

大阪南港に朝8時30分に到着。大阪市街地に到着すると難波駅から近鉄橿原線に乗り換えます。電車の車窓から追手門付近の復元櫓や石垣を眺めながら近鉄郡山駅で下車しました。

大和郡山城について

郡山城(こおりやまじょう)は、奈良県大和郡山市にあります。古くから当地の戦乱に登場する城郭のようですが、戦国時代になって筒井順慶によって整備された時代を経て、豊臣政権期に秀吉の異父弟 羽柴秀長の居城となり、その領国であった大和・紀伊・和泉3か国100万石の拠点とされています。江戸時代になると譜代大名の居城として維持され、最後は柳沢氏15万石で明治維新を迎えているようです。

公園化された鷺池と背後の郡山高校を見る。

城址方向に線路沿いを歩いていくと、長大な池と学校敷地を目にします。鷺池・鰻堀池と名付けられているようですが、岸には石垣以降も見受けられ郡山城の外堀だったものと推定されます。公園化されて周辺の住民には憩いの場所になっているようです。

城の方向がわからなくなり池沿いに進み、大手方面ではなくではなく芝生広場(麒麟郭)のほうに入ってしまいました。画像の周辺図から見てもらうと大手(追手)の真裏に入ったわけです。

いよいよ郡山城内へ入る

現地の案内板は、土地勘のない旅行者にはありがたい。

ここまで歩いて感じられるのは奈良県の自治体は、公費を投じて文化財の維持・管理・公開・公園化などの施策が先進的なように感じられたことです。自治体の財政力の問題があるとは思いますが郡山市の文化財を大切に守る意識の高さが感じられます。

発掘成果を、常時わかりやすく図と説明文で表示してくれています

麒麟郭からみた本丸天守台

麒麟郭を回りながら、近年整備された天守台の写真を撮ります。本丸は堀に囲まれており天守台に登るためには本丸周りをぐるっと一周することになります。しかし、本丸の比高が周辺の郭より高くやや中距離から天守台の写真を収めたい愛好家には良いコースになりました。なんだかんだと立ち止まっては色んな角度の天守台を撮りながら、やっとこさ追手門にたどり着きます。ここまで歩いて9月上旬の晴天、まだ暑く汗だくです。

大和郡山城の追手の門と櫓を見る

追手向櫓
追手門(梅林門)

大手エリアは、郡山城の建物を見ることができるエリアです。郡山城内には現存建築物は無いようで、これらの建造物は復元建築のようです。柱が露出した真壁造りの建て方や入母屋造りの望楼型の櫓、下見板張りの壁面など古城の風格を漂わせています。絵図・文献・指図のような何か復元にあたっての資料があったのでしょうか。大和の国に来たんだという実感が大いに沸きます。

いよいよ城内に入ります。

極楽橋を渡る

極楽橋を渡ると本丸です。
本丸内から極楽橋を見ます。意外と堀が深いです

大手門から、毘沙門曲進み堀で隔てられた本丸に進入します。極楽橋と呼ばれる木橋を渡りますが、本丸は多少の高台になっていて極楽橋も多少の傾斜を感じます。本丸から周囲の曲輪を見渡すと想像以上に堀も深く防御に有利な高台に本丸があることが実感されます。

いよいよ右手に天守台が見えてきました。

本丸周りも雑草もなく足元が整備されていて、看板・お手洗いも要所に配置されております。

天守台に登る

現地案内板です

織豊期の古い天守台の姿をみることができます。筒井順慶が築城し、豊臣秀長によって本格的に整備されたという城郭です。天守は筒井時代からあったようですが、秀長時代に存在したものとの関係はどうなのでしょうか。筒井氏の天守と秀長時代の天守は同じものだったのか興味があります。

看板説明文を拝見すると、1階の規模が7間×8間程度と判明しているようです。五重天守であったとすれば微妙に小さな規模の五重天守になります。豊臣秀長の郡山城天守は、のちに二条城天守として移築された記録があり(伏見城という説も)、これがまた淀城天守に再移築されたといわれています。あとで訪問する淀城天守は天守台に空き地ができて周囲を櫓で囲った記録があるので移築説と辻褄があります。

天守台は、柵や階段の足場などよく整備されて登りやすいです
天守付け櫓台から天守の階段を上ります
穴藏の礎石群も見やすいように整備されています

この天守台の見どころの一つに寺院など宗教施設からの転用石があります。下の2枚の写真に如実に表れています。お地蔵さんを埋め込んだり寺院の礎石を天守台隅石に用いています。戦国時代でそういう時代背景だったことは理解できるのですが、墓石やら仏塔やら使用しています。筒井氏時代の天守台だったら、筒井順慶は坊主だったと思うのですがいいのか?そんなことしてと思いますが。・・・やはり秀長時代に築造された天守台でしょうか。

逆さ地蔵という不気味なもの。卒塔婆の横の石の隙間に地蔵さまが・・

福知山城に行った際も天守台で多くの転用石をみました。織田信長の家臣は、神仏よりも信長を神のように崇め主命を実現するため手段を選ばなかったということでしょうか。

明智光秀の福知山城です。天守台石垣のいたるところに墓石が転用されています。

上の写真は、明智光秀の福知山城の天守台です。この時代は、石山合戦や一向宗の一揆などの宗教勢力に力があり、迷信もはびこる時代です。福知山城も郡山城も織田信長家臣により築かれたという共通項があります。墓標や寺院の転用石は、背景に石垣づくりの城郭の普及に伴う石材調達の切迫さがあるのでしょう。ただし、信長家臣の城にみられるのは、信長による従来の宗教の軽視、死後の世界を否定する思想も一因かもしれません。宗教施設で不謹慎な行動があると「罰当たりな」などと現代人の我々でさえ思います。墓石や仏石を積む行為が平然と行われていたのは、武力が現実の全てである下剋上思想の現れかもしれません。織田信長が、幾たびか家臣に謀反を起こされたあげくに光秀に本能寺で反乱を起こされたのは必然であったのかもしれません。

郡山城の天守台。本丸と天守周りに空き地があり、本丸隅部に位置していない。

郡山城をひとしきり見て、次の目的地、伏見城を目指します。