この記事は、前回に引き続いて、従来から様々な解釈がなされていた天守級の櫓である宇土櫓について考えてみたいと思います。今回は下記の①と②の説について述べていきます。
① 宇土櫓は小西行長の宇土城天守を移築したものであるという説。
② 昭和の解体修理で、①の移築は否定されたことになっていた。
③ 加藤氏時代の宇土櫓は二重二階だった。江戸時代に三重目が増築され(三重四階)その後、内部も改造されて三重五階櫓になったという説。
④ 宇土櫓は現在の大天守台に築かれた初代天守を移築したものであるという説
⑤ 宇土櫓は、隈本城時代の天守を移築したものであるという説
①② 宇土櫓は小西行長の宇土城天守を移築したものであるという説
この説は1772年(明和9年)に森本一端が記した『肥後国誌』(下巻)によって通説化したものです。「宇土」を冠した名称から生じた風聞から地誌に書かれたもので、江戸期の書物とはいえ築造後2世紀近くたっており根拠に乏しく、昭和の解体修理においても完全に否定されました。解体修理は昭和2年(1927年)に行われたものですが、「特別史跡熊本城跡総括報告書(2019年)」によれば、このとき小西行長創建の建物を移転したことを証する成果がなかったことから、移転は無かったと結論付けられているようです。宇土櫓は江戸期から昭和期にかけて大規模な修理が幾度か行われています。現在も熊本震災後の解体修理が行われていることが報道されており、ご存じの方も多いと思います。私も宇土櫓の小西行長時代の天守移築は無いだろうと考えていますが、熊本(隈本)城内から移築(④説あるいは⑤説)された可能性は高いと考えています。宇土城天守に着いては、熊本城小天守(二の天守)への移転説があり、文献上の根拠もあるようです(「肥後宇土軍記」)。しかし、小天守は明治時代の西南戦争時に焼失しており建物調査はできません。熊本城小天守は大天守と全く似ていない外観ですが、宇土櫓の外観(破風の構成)は、大天守と共通していることが識者により指摘されています。宇土櫓は小西行長由来の宇土城天守でないと私が考える理由です。最近、柱の年輪で年代を図る調査法が、天守の年代確定に大きな成果を上げています。この調査が行われることを期待しています。

次回は③の当初の宇土櫓は二重二階だったという説について考えてみたいと思います。


