築城名人・藤堂高虎が築いた宇和島城|現存天守と高石垣を実体験で解説

復元天守
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まず結論|宇和島城は、「戦う縄張り」と「泰平な世の天守」が同居する城

宇和島城は、築城名人・藤堂高虎によって築かれた防御に工夫を凝らした縄張りと、宇和島伊達家の時代に整えられた開放的な玄関を持つ天守が同居する珍しい城です。

登城路や石垣には戦国の緊張感を残る一方で、現在の天守には泰平の時代らしい穏やかさも感じられます。

本記事では、現地で実際に歩いて感じた見どころや注意点を交えながら、宇和島城の魅力を解説します。

基本情報

宇和島城を訪問する前に基本情報をまとめてみました。

所在地愛媛県宇和島市丸之内
築城時期慶長元年(1596年)
天守現存天守(重要文化財)
入場料大人200円
見学時間90分程度
駐車場城山下駐車場(市営)

宇和島城はどんな城か|高虎の縄張りと伊達家の天守が残る城

宇和島城は、慶長年間に藤堂高虎によって築かれた城を基礎とし、その後、伊達家の居城として整備された城です。

現在の天守は伊達宗利の時代に建てられたもので、現存12天守の一つに数えられています。

一方で、城山全体の縄張りには高虎らしい工夫を凝らした防御性が残されており、登城路やその石垣からは戦国期の城づくりの思想を感じることができます。

登城路|敵を簡単に近づけない複雑な山道構造

宇和島城図。城域は五角形でそのうちの2面を海に開いています。平山城でありながら海城でもある要害であることが分かります。

現在の宇和島城は、城山周辺の海岸線が埋め立てられ、市街地の中に城山があるように見えます。高虎によって築城された当時は、内堀で区画された城域が北面と西面が海に接しており、全体が不等辺五角形という工夫を凝らした縄張りでした。城山山上に本丸と天守を置く平山城でありながら、海城でもあるという点が縄張りの特異点です。

私は城内へは、登城口直近の城山下駐車場に自家用車を入れて、三の丸側の登城口(城山北登城口)から訪問しました。登城口には桑折長屋門があります。藩政時代宇和島藩の家老、桑折氏の長屋門を移築したものです。本来の城門ではないようですが、門を潜ると城域に入った感が強くなります。

右側の駐車場から、すぐに登城ができます。
三の丸から入城の桑折長屋門を背後から見ます。
三の丸跡を側面から撮影しています。曲輪内は現在は市街地化され家屋も建てられており、広さの把握は、難しい状況です。

本丸へは井戸曲輪が直近のようですが、結構な傾斜道を登るのは避けて、山を北と西へ大きく迂回して長門丸から登城するコースで天守に向かいます。
訪問して感じたことですが、山上部は広めの平地がありますが、そこに至るまでの山の斜面は急傾斜になっています。このため、守りには最適の立地で、攻城側は急傾斜の登城路を登るのか、迂回してなだらかな、本丸への距離を稼がれる登城路を行くかになります。

なだらかな城山を迂回する登城路の各所で、藤堂時代以来の石垣を目にすることができます。
宇和島城の石垣は、隅部が長方形の石を交互に重ねた算木積といわれる積み方をしています。自然の岩を利用したところも、所々みられ山城の要害の側面も感じられます。

城山を、登って行くと自然の岩盤に加えて、要所には石垣が積まれており、山上に容易に近づけさせない登城路の防御性を強く感じることになります。

高石垣が各所に配された実戦的な縄張り

天守のある本丸までは長門丸・藤兵衛丸といった曲輪を通らなければなりませんが、そこにいたるまでに野面積の堅固な高石垣に沿って歩いていきます。

藤兵衛丸の高石垣です。精密に加工された石垣ではない野面積の石垣で、城内でも古さを感じさせます。
野面積の石垣を本丸目指して登っていきます。藤堂時代から積まれた石垣と思われます。

城山を登る登城路では藤堂時代に築かれた石垣を見ることができます。
宇和島城の石垣は、一見乱雑に積まれたような野面積の石垣で、見せかけの巨石を配することもありませんが、城全体を要塞化して敵を寄せ付けない高石垣を築く築城思想は、後の築城に共通しているようにも思えます。

伊達時代の現存天守|戦国の緊張感から解放された開放的構造

宇和島城の天守は、現存12天守の一つです。この天守は1666年(寛文6年)に当時の宇和島藩主伊達氏による2代目天守です。初代の天守は藤堂高虎による慶長年間のものですが、入母屋造りの出窓を多く持った非常に特異な外観の天守だったようです。この天守は寛文2年(1662年)に幕府に提出した天守改修窺書によると、建築後わずか半世紀でほぼ全体が腐朽していたということで、その際に改修されたものが現在の天守になります。幕府には改修と伺いを立てて、実際は新材で立て直しているわけですが、天守台はそのままに、初層の規模も初代と同じ6間四方、三重というのもこのような事情によるものと考えられます。

初層の規模は同じでも、現在の天守は時代を反映した新式の層塔式で各階の低減が少なく、三重目の規模は初代の4倍(2間四方から4件四方)になっています。また、三重の天守ながらも各階の屋根全てに千鳥破風又は唐破風を設けて華やかな外観を見せており、通常の三重櫓とは違う天守ならでは風格を示しています。

実際に天守台に登段すると、手すりはありませんが数段で階段踊り場に、また数段で玄関に到達します。

この天守に登るには、付櫓台の石段を登りますが、上りやすいように踊り場が設けられた10段程度の石段で簡単に天守玄関口まで上がれます。天守の入り口は付櫓はなく代わりに開放的な玄関が設けられており、登城路に感じた戦国時代の厳しさからは解放された藩政のシンボルとしての天守の役割を感じさせます。

天守の入り口部分には、付け櫓ではなく開放的な玄関があるのが初代と二代目天守の最も大きな違いでしょうか。

天守台石垣について
宇和島城の天守の石垣(天守台)は、見事な切り石で丁寧に積み上げられていますが、石垣端部から建物が建てられておらず、犬走という人が通れるくらいの余地空間があります。当然、このような構造では、石垣を登ってくる敵に攻撃が出来ず、天守での籠城には不利になります。このため、二代目天守は平和な時代の象徴といわれていましたが、実際の所はこの天守台石垣は幕末期の改修ということが分かってきましたので、二代目天守の建築期とは関係がないようです。(建築時は、初代天守と同じく自然の岩盤上に建てられていたようです。

この天守には、戦国時代から江戸初期の天守のような防備(石落しや忍び返し)がなく、建物の周囲に犬走があるため泰平な時代の城と一般的に思われています。

天守の内部について
天守の内部は、現存天守らしい木造の佇まいを感じることができます。なかでも、江戸期に創られた修理用の天守の雛形は実見の価値があります。

天守の廊下側から見ると、明り取りの窓も大きく作られており、内部は意外に明るくなっています。

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天守の内部階段は、現存天守だけに、ある程度の急階段ではあるものの写真のように途中で踊り場があり、手すりを使えば他と比較すれば登りやすい部類の天守でした。

2階から3階に上がる階段です。急階段ですが補助的に左側に掴みやすい高さの手すりを設置してくれています。ありがたい。
天守の階段の手すりは一般に高さが低いものが当たり前ですが、この宇和島城は1階から2階に上がる階段に踊り場がありますので、一息付けます。

また、戦国時代の名残でしょうか。最上階の窓の上には鉄砲射出後の排煙窓が作られています。泰平の時代の天守といえども、いざ籠城戦という時の備えを忘れているわけではないようです。

天井付近の白壁の間に挟まれて排煙用の窓が、設えています。
窓からの光も良く入る最上階の様子です。