この記事は、前回の 熊本城 三の天守という宇土櫓の謎4に引き続いて、従来から様々な解釈がなされていた天守級の櫓である宇土櫓について考えてみたいと思います。
今回は下記の⑤の隈本城天守移築説について述べていきます。
① 宇土櫓は小西行長の宇土城天守を移築したものであるという説。
② 昭和の解体修理で、①の移築は否定されたことになっていた。
③ 加藤氏時代の宇土櫓は二重二階だった。江戸時代に三重目が増築され(三重四階)その後、内部も改造されて三重五階櫓になったという説。
④ 宇土櫓は現在の大天守台に築かれた初代天守を移築したものであるという説
⑤ 宇土櫓は、隈本城時代の天守を移築したものであるという説
隈本城について
1.隈本城とは
熊本城は広さは約98ヘクタール(約98万m2)、周囲は約5.3kmあります。これだけ広いのは、南西の「古城」と北東の「千葉城」を取り込み、それらを出丸としているのも一因です。古城と呼ばれているエリアは名称の通り、熊本城の前身である「隈本城」があったところです。古城は熊本城の南端にある南北に細長い台形の郭で、鹿子木親員が室町期(16世紀前半)に隈本城として築城した場所であり、その後もこの場所を佐々成政や加藤清正も肥後統治の拠点としていました。豊臣秀吉が九州征伐の道中で隈本城を名城と評価していることから肥後統治に相応した城が存在していたことが伺われます。加藤清正が入部した時の地図では坪井川沿いに三層の天守(他に二層の櫓二基)あったということで、佐々成政が城主の一年足らずの内に織豊系城郭として整備していたかもしれません。
なお、この三層天守の記述はウイキペディアの「熊本城」の記述欄からの引用ですが、私はその地図を実見していないので佐々成政時代に天守があったのか否かは判断できません。現存している宇土櫓の屋根の破風は直線的でむくりもあり、他の熊本城内の櫓と共通している仕様なので、私は加藤清正による創建であろうと考えています。

熊本城天守と隈本城天守
仮に宇土櫓が、古城(隈本城)にあった天守(清正創建)が前身とすると、いつの段階で現位置(本城内の平左衛門丸)に移されたのでしょうか。前任者の佐々成政は国衆一揆の対応に追われた挙句1588年(天正16年)には切腹を命じられていますから、この頃にすでに天守まで在ったかについて疑問があります。佐々成政の死後、加藤清正が隈本城に入城し、1591年には茶臼山丘陵一帯に築城を開始しています。その後、1592年に清正は朝鮮半島に出兵しており、熊本築城は、城主不在の間も続けられていたと思われます。このときの、築城工事が隈本城(古城)の改修工事か、現在の熊本城の本城部分(本丸周辺の郭と西出丸)なのかがはっきりわからないため判断が難しくなっています。
いずれにしても、熊本築城は本丸及び天守から優先的に行われたと考えられます。現在の茶臼山にある天守(熊本城)が1601年(慶長六年)に竣工したというのが定説ですので、外郭を含む熊本城(本城と古城)には一時的に新旧2基の天守が存在したということでしょうか。(なお宇土城からの移築説がある小天守は1609年(慶長14年)頃といわれています。新旧二つの天守が別途独立して存在する城で思い浮かぶのは豊臣氏大坂城と米子城です。)
茶臼山新城の築城と並行して隈本城の出丸化の工事も行われ、縄張りに大幅な変更と普請が加えられた思われます。この際、隈本城(古城)の天守台は取り壊され天守もいったん解体されたと推理します。
それが、現在ある宇土櫓の櫓台が構築された時期(熊本城大天守築造より後年)と重なるなら時期的には最もタイミングが良いのですが、それを証する明確な資料はないようです。


