現在の中津城には、昭和時代に建てられた模擬天守があります。一方、黒田孝高(官兵衛・如水)や細川忠興に関わる書状には「天守」の記述が残されており、江戸時代初期まで中津城に天守が存在した可能性があります。しかし、城内では本来の天守台の位置が確認されていません。
この記事では、現在の縄張りや石垣、黒田・細川時代の書状、「天守の欄干」という記述を手掛かりに、中津城天守が実在した可能性と、失われた天守台の位置について考察します。
結論を先に述べると、複数の文献史料から、中津城に天守が存在した可能性は高いと私は考えています。ただし、その規模や外観、建っていた位置は確定しておらず、今後の発掘調査による解明が待たれます。
『天守の欄干』という書状はどの城を指すのか
注目したいのは、文禄2年(1593年)に没した黒田家家臣・小河信章の跡を継いだ小河之行が、黒田長政に宛てた書状です。書状には、「天守の欄干」が腐朽したことをうかがわせる記述があります。ただし、書状には年次がなく、それが中津城と福岡城のどちらを指すのかは確定していません。この記述は、両城の天守の存在を考えるうえで重要な手掛かりとなります。

廻り縁・高欄から天守の年代を考える
小河之行の書状には月日が記されていますが、年次は明らかになっていません。そのため、書状にある「天守」が中津城と福岡城のどちらを指すのか、書状だけでは判断できません。
考えられるのは、次の三つです。
① 中津城にのみ天守があり、書状は中津城の欄干を指している。
② 福岡城にのみ天守があり、書状は福岡城の欄干を指している。
③ 中津城と福岡城の両方に天守があり、書状はそのいずれかを指している
私は③の可能性を考えています。天守は織豊期に、城主の権威や武威を示す象徴的な建物として発達しました。安土城以降の天守では、最上階に廻り縁と高欄を設け、それを外観上の特徴とする例が多くみられます。
一方、関ケ原合戦前後からは、廻り縁を雨戸や壁で覆う天守や、実際には歩けない装飾的な高欄を設けた天守も現れました。このため、廻り縁や高欄の形式は、天守の建築年代を考える手掛かりになります。ただし、例外もあるため、それだけで年代や城を特定することはできません。

中津城と福岡城のいずれにも、廻り縁と高欄を備えた天守が存在した可能性はあります。ただし、中津城は黒田氏が関ケ原合戦以前から築いた城で、福岡城より古いと考えられます。そのため、書状が作成された時期によっては、腐朽した欄干が中津城天守のものであった可能性があります。もっとも、年次が不明である以上、これは両城の年代差から導いた仮説になります。
現在の中津城模擬天守では、廻り縁が金網フェンスで覆われ、高欄は撤去された状態です。撤去の理由は確認できませんが、時代を問わず、風雨にさらされる廻縁や高欄の維持管理が容易ではないことを考えさせる姿です。

黒田・細川期の書状が伝える中津城天守
黒田孝高(如水)の書状には、「天守に銭を積んで蓄えた」と読める記述があります。
また、元和5年₍1619年)1月の細川忠興書状にも、中津城の天守を明石藩の小笠原氏へ譲ることに関する記述が残されています。
天守の成立初期には居住機能を備えた例も見られますが、近世城郭における城主の日常生活の中心は御殿でした。天守は城郭の象徴であるとともに、その内部が武具や財物の保管に使われることもありました。そのため、黒田如水が天守に銭を蓄えたという内容は、天守の利用法として不自然ではありません。年代と作成者の異なる複数の書状に天守の記述があることは、江戸時代初期まで中津城に天守が存在した可能性を示す重要な手掛かりです。
一方、天守が建っていた位置は確認されていません。元和7年₍1621年)に中津城の縄張りが拡張された際、不要となった天守台が取り壊されたり、埋め戻されたりした可能性があります。根石や礎石が本丸の地盤下に残っていることも考えられますが、現段階では発掘調査による裏づけのない仮説です。

現在の中津城と消えた天守台

現在の中津城を歩くと、文献に残る天守と現地の縄張りとの間に、いくつかの疑問が浮かびます。
海と川を利用した中津城の立地
中津城は、高松城・今治城とともに「日本三大水城」の一つに数えられています。築城当時は海水を堀へ引き込み、周防灘や中津川に近い立地を防御に生かしていました。平地に築かれた城ですが、水堀と河川、海を組み合わせた縄張りに特徴があります。
現在の本丸周辺だけを見ると、高松城や今治城ほど幾重に水堀を巡らせた城には見えません。しかし、中津城は黒田氏による築城後、細川氏の時代にも拡張・整備されています。城下町を囲む土塁や堀を含めて考える必要があり、現存する遺構だけから当時の防御力や規模を判断することはできません。
平坦な立地で天守が担った役割
中津城本丸は、城下町との比高差が小さく、現在の模擬天守も、遠方からは周囲の樹木や建物に隠れて見えにくい場所にあります。平坦な城地に立つ高層建築には、城内外を見渡す機能だけでなく、領主の権威を視覚的に示す役割もあったと考えられます。
ただし、文献に示された旧天守の高さや外観は分かっていません。現在の模擬天守の見え方を、そのまま旧天守に当てはめることはできませんが、平坦な中津城において天守がどのような意味を持ったのかを考える手掛かりにはなります。

中津城の縄張りから天守台の位置を考える

現地案内板に掲示された中津城の縄張り図。本丸・二の丸・三の丸と、高瀬川(現在の中津川)の位置関係が分かります。
江戸時代に描かれたという「中津城下図」には、中津川沿岸の本丸・鉄門脇に三重櫓が描かれています。水上交通に関わる鉄門を監視・防御する位置にあり、本丸でも目立つ建物だったと考えられます。この三重櫓が天守に相当した可能性も検討しましたが、現地に残る櫓台は規模が小さく、旧天守台と判断するには慎重さが必要です。

写真右側の平屋建物の下にある、横矢のかかった石垣が、「中津城下図」に描かれた三重櫓の櫓台に当たると考えられます。河川側の石垣には黒田氏築城期の特徴を残すとされる部分があり、鉄門付近は後世に石で埋め戻されています。ただし、現在の石垣が築城当時からどこまで改変されずに残っているかは、現地視察だけでは判断できません。
現地で見る櫓台は、天守台とみなすには小規模です。「中津城下図」に描かれた三重櫓の基壇だった可能性はありますが、ここを文献に残る天守の位置と断定することは難しいでしょう。「中津城下図」で確認できる唯一の三重櫓であり、中津川に面する本丸西側の中央部に位置することから河川側の監視と防御を担う重要な櫓でした。

まとめ|中津城天守は実在した可能性が高い
元和7年(1621年)、中津城は細川氏によって整備され、現在につながる扇方の縄張りが完成したとされています。現地に残る石垣の継ぎ足しからも、黒田氏の築城後に本丸周辺へ改変が加えられたことが分かります。その後も、小笠原氏、奥平氏と城主が替わり、中津城は長期間にわたって使用されました。
文献には、中津城天守の存在を示す記述が残る一方、天守台の位置は確認されていません。
私は、細川期の拡張、または小笠原氏・奥平氏を含む後世の改修の際に、旧本丸の堀が埋められ、不要となった天守台も取り壊されたか、地中に埋め戻された可能性があると考えています。ただし、天守台が失われた時期を示す史料や発掘成果は確認されておらず、現段階では複数の時期を候補として残す必要があります。


二枚目の写真では、石垣中央左を斜めに走る積み継ぎの境目がはっきり分かります。向かって右側が黒田期、左側が細川期に増築された石垣です。黒田氏の本丸石垣を細川氏が拡張した痕跡であり、中津城の縄張りが築城後も改変されたことを示しています。
黒田・細川期の書状を踏まえると、中津城に天守が存在した可能性は高いと私は考えています。しかし、その位置や規模、天守台が失われた時期は分かっていません。今後、本丸周辺の発掘調査が進み、黒田氏築城時の縄張りと旧天守台の位置が明らかになることを期待します。
主な参考資料
本記事の作成に当たり、以下の古文書、研究文献、展示解説、現地案内板などを参照しました。資料から確認できる事実と、筆者が現地の縄張りや石垣から考察した仮説は区別して記述しています。
・福岡市博物館所蔵「小河文書」(小河之行書状)
・黒田孝高書状(中津城天守の用途に関する記述)
・永青文庫所蔵「細川忠興書状」(元和5年正月、細川忠利宛)
・服部英雄『歴史を読み解くーさまざまな史料と視角』所収「福岡城に天守閣はあったのか」
・中津市歴史博物館の常設展示、中津城跡現地案内板および「中津城下図」
・明石城公式サイト「明石城の見どころ」


