大阪城を訪れる多くの人は、目の前にそびえる天守を見て「これが豊臣秀吉の城だ」と思うかもしれません。
しかし、実は、現在の大阪城は徳川時代に築き直された城です。
では、豊臣秀吉の大坂城はどこへ消えたのでしょうか。
今回は大阪城内に新しく誕生した豊臣石垣館と、滋賀県竹生島に残る豊臣時代の遺構を訪ねながら、消えた豊臣大坂城の痕跡を追いました。

まず結論|豊臣大坂城を感じるならこの3か所
・豊臣石垣館
・山里丸
・竹生島(唐門)
豊臣石垣館は、豊臣氏時代の石垣を見ることができる大阪城唯一の場所です。山里丸は徳川氏によって盛土されて姿を消した大阪城内で豊臣時代からあった極楽橋や豊臣秀頼・淀殿自刃の地があるなど大坂城内で豊臣氏の痕跡をわずかに感じることができる場所です。竹生島は滋賀県の琵琶湖に浮かぶ景勝の島で、ここにかつて豊臣氏の極楽橋の屋根に架けられた唐門を(国宝)見ることができます。この唐門が唯一の残された豊臣の大坂城建築遺構といわれています。今回は、豊臣兄弟ゆかりの大坂城の遺構を求めての旅の紹介をします。

大阪城の基本情報
| アクセス | 地下鉄(谷町線・中央線:谷町4丁目駅下車) (JR大阪環状線:大阪城公園駅) |
| 入館料 | 大人1,200円 大学生・高校生600円 中学生以下無料 学生は要証明 |
| 見学時間 | 9:00~18:00(入館は17:30まで) 年末年始は休館 |
| 駐車場 | 大阪城公園駅前駐車場(171台) 森ノ宮駐車場(143台) |
「大阪城」と「大坂城」の表記について
「おおさかじょう」の表記は、近代から大阪と表記するように改まったため、現在の城を指す場合は「大阪城」と表記します。後述の歴史解説に用いる場合は「大坂城」表記を使います。
現在の大坂城は徳川時代に再建された城
豊臣秀吉が築いた大坂城
大坂城は、かつては織田信長が争った石山本願寺が存在した要地で、豊臣秀吉が拠点として築城してから、秀頼の代での大坂の陣、豊臣氏滅亡後の徳川幕府による再建を経て、現在みられる昭和初期の天守復興などの歴史を持っています。
大坂の発展の礎を築いた人物として、天下人・豊臣秀吉の影響が強くあることから大坂城=秀吉=天下無双の城というイメージが私たちの中に残されています。
大坂夏の陣で焼失
豊臣秀吉が築き上げた財力と人力を尽くして築いた大坂城は、秀吉の死後、関ケ原の合戦を経て天下を手中にした徳川家康(江戸幕府)との対立を生み、1614年(慶長19年)に大坂冬の陣が勃発しました。大坂城に籠城した豊臣方を幕府側は攻略できず、一旦講和を結びましたが、冬の陣から4か月後の1615年(慶長20年)には、和議は破られ大坂夏の陣が始まります。防御の要である広大な堀や総構が破壊された大坂城は落城して、豊臣氏は滅亡しました。
徳川秀忠が埋め立てて再建した
落城後の大坂城は、初め家康の外孫・松平忠明に与えられましたが、1619年には、大坂は江戸幕府の直轄地となり、翌1620年(元和6年)から2代将軍徳川秀忠によって、豊臣色を払拭する大坂城再築工事が開始されました。大坂城再築工事は主に西国大名を中心に1620年(元和6年)からの第一期工事、1624年(元和10年)からの第二期工事、1628年(寛永5年)からの第三期工事と実に3期・足かけ9年にわたる普請によって1629年(寛永6年)に完成しています。この大工事で、豊臣時代の大坂城は数メートルの盛土が行われたために本丸部分では地上にその姿を見ることができなくなってしまいました。

地下に眠る豊臣大坂城を発見|大阪城豊臣石垣館体験記
豊臣石垣館とは
「大阪城 豊臣石垣館」は、令和7年にオープンした施設で、昭和59年(1984)の発掘調査で姿をあらわした豊臣期石垣を、地中に降りてみることができます。大阪城内で見ることが可能な唯一の豊臣氏遺構で、徳川再築の石垣とは異なる魅力と迫力、そして驚くべき大量の土砂による盛土の質感を体感することができます。ここで見られる石垣は、本丸内の詰ノ丸というエリアの高石垣で、ここは秀吉・おね夫妻や淀殿・秀頼母子が生活した プライベート空間で、城の最深部・本丸のなかでも最重要部分です。

実際に見学して感じたこと
・素朴な自然石の多い高石垣に、古式を感じる。
写真のように横長い大石をメインに、表面以外はほとんど加工せず並べて積み上げ、隙間に小石を詰めて調整した石垣を積み上げています。「野面積み」という技法ですが、素朴で江戸時代の城ではあまり見られない原初的な石の積み方を感じることができます。

・石垣造りで必須の裏込め石のありさまが、大坂城でも確認できます。
石垣館の内部は、まず地下1階で間近に豊臣石垣を見るのですが、次に階段を登って1階展示ホールからも上から見下ろす位置で見学ができます。この位置からは石垣の裏側に詰められていた小さな自然石(裏込め石)を見て石垣づくりの断面を知ることができます。裏込め石を詰めるのは土と表面の石の間に小石を詰めて雨水の水はけを良くする工夫です。

・すでに隅部は算木積の技法を用いて積まれていることが確認できます。
より高く頑丈な石垣を築くために、石垣の隅部に直方体の石を交互に積み上げる手法を「算木積み」といいます。豊臣大坂城では、石の一つ一つがきれいに加工されていませんが、すでに算木積みの工法が採用されているのが確認できます。
徳川幕府が再建した大坂城の算木積み石垣と比較して帰ることで年代の違いと築城の進歩を感じることができます。


徳川が埋めた豊臣石垣を目の前で見る
この豊臣石垣館では、かつて地表にあった豊臣時代の石垣を地下で観るのですが、階段を地中深く降りるにつれて、盛土が大がかりな土木工事であったことが体感されます。豊臣石垣に被された圧倒的な土砂から、徳川家がいかに豊臣家の存在を歴史に埋没させたかったのか感じさせられます。大坂城は大阪市のど真ん中で、平地にあるイメージですが、実際二の丸から本丸天守の位置まで歩くと、結構な坂道を登ることになります。堀に面した本丸石垣は高さが30メートル位あるそうですが、元来の本丸台地の標高に加えて盛土分の高さが加えられたことから、日本一の高石垣になっているのでしょう。
大阪城を訪れると、天下普請の光を浴びた巨大な石垣に圧倒されますが、この施設に入館して、暗がりの中でスポットライトを浴びた「太閤さんの城」の石垣と初めて対面させられると、歴史の真実を目の当たりにされた気分になります。

大阪城で今でもみられる豊臣時代の痕跡
現在の大阪城は徳川時代に築き直された城ですが、城内を歩いてみると豊臣時代を思わせる場所がいくつか残されています。
地下の豊臣石垣館で秀吉の城の存在を知った後に城内を巡ると、見慣れた景色も違って見えます。
ここでは、私が実際に歩いて見つけた「豊臣大坂城を感じられる場所」を紹介します。
山里丸から見る豊臣時代の地形
大坂城本丸の北側に位置する山里丸は、豊臣時代の面影を想像しやすい場所の一つです。
現在の大阪城は徳川幕府によって大規模に盛土されて再建されましたが、山里丸周辺には比較的古い地形が残されているといわれています。
大坂城本丸の天守のある周辺は、地盤高が均等な広場になるよう大量に盛土されていますが、極楽橋で二の丸と接している山里丸の圏内を歩くと、高低差のある地形や入り組んだ曲輪の配置が見られ、徳川期の築城と異なる雰囲気を感じます。
私が訪れた時も、本丸本段の広大な空間と違って、どこか戦国の城の空気が残っているように思えました。


秀頼と淀殿が最期を迎えた場所
山里丸には、豊臣家最後の当主である豊臣秀頼と、その母・淀殿ゆかりの地として伝わる場所があります。

1615年(慶長20年)の大坂夏の陣で大坂城は落城し、秀頼と淀殿は自害しました。豊臣家はここで滅亡し、戦国時代も大きな区切りを迎えることになります。
現在は静かな樹間に囲まれた広場となっていますが、この場所は豊臣政権終焉の舞台でもあります。
目前には国際色豊かな多くの観光客で賑わう大阪城天守があります。しかし、その華やかな景色の裏には、豊臣家滅亡という歴史が隠されています。
豊臣兄弟ゆかりの城シリーズを追ってきた私にとっても、この場所は特に印象深い場所でした。


豊臣大坂城を想像できるポイント
現在の大阪城の姿は徳川氏によるもので、天守も徳川期の天守台の上に復興された昭和のコンクリート建造物です。しかし、なぜ人々は大坂城は豊臣の城というイメージを持つのでしょうか。それは、豊臣時代の黄金と極彩色の華麗な建築群が当時の民衆を驚嘆せしめ、その後の滅亡という栄枯盛衰の悲劇が長く記憶として受け継がれてきたからだと思います。
大阪城天守閣は豊臣時代の天守を「大坂夏の陣図屏風」をもとに外観を構成しており、内部は博物館として充実した展示物を見学することができます。この展示は豊臣秀吉の生涯や大坂の陣など豊臣氏中心です。豊臣石垣館は天守閣入場券とセット販売になっているので、天守にも登閣して現代の難波の街を俯瞰できます。
周囲に見えている大阪城は徳川の城、天守は昭和の建造物です。しかし、足元には豊臣の城が眠っていることを想像して、唯一の豊臣建造物、極楽橋唐門を求めて琵琶湖の竹生島への旅に向かいました。

唯一現存する豊臣大坂城の遺構。竹生島唐門を訪ねる
竹生島とはどんな場所か
豊臣大坂城の痕跡を探していると、その旅は意外にも大阪を飛び出して琵琶湖へ向かうことになりました。
竹生島(ちくぶじま)は、琵琶湖の北部に浮かぶ周囲約2㎞の小島で、古くから信仰の島として知られています。
現在は長浜港や今津港などから観光船で渡ることができ、島内には宝厳寺や都久夫須麻神社が建っています。
私も長浜港から船に乗り竹生島へ向かいましたが、湖上から近づく島の姿はまるで海に浮かぶ神秘の要塞のように見えました。




国宝・唐門の由来
竹生島で最も注目したい建物が、宝厳寺の唐門です。
極彩色の装飾が美しいこの門は国宝に指定されています。

現在の唐門は、豊臣秀頼による豊国神社再建の際に移築されたと伝えられていますが、その起源については、豊臣秀吉が築いた大坂城の極楽橋にあった門を移したという説が広く知られています。
もし、伝承が正しければ、豊臣氏大坂城から現代まで残った唯一の建築遺構となります。
大坂城公園で見た巨大な石垣とは異なる、安土桃山文化の意匠を今も間近に感じることができます。


豊臣大坂城遺構と伝わる理由
この唐門が本当に大阪城の極楽橋から移されたものなのかについては諸説あります。
しかし、秀頼による慶長年間の竹生島再建事業との関係や、古くから伝わる移築伝承によって、現在も信憑性の高い「豊臣大坂城遺構」として語られています。
私が興味深く感じたのは、徳川幕府によって徹底的に埋められた豊臣大坂城の建築が、遠く離れた琵琶湖の島で守り伝えられていることです。
大阪城公園では地下に眠る石垣としてしか見ることができなかった豊臣の城が、竹生島では実際の建築物として目の前に現れています。
その意味で、この唐門は単なる寺社建築ではなく、豊臣大坂城の記憶を現在に伝える貴重な存在といえるでしょう。

竹生島の唐門は大坂城極楽橋の一部分の移築ですが、下に他の城の水堀に架かる橋(大分城)と唐門(二条城)の写真を掲載します。豊臣氏大坂城の極楽橋唐門が極彩色のいかに美しいものであったかご理解いただけると思います。


実際に訪問して感じたこと
大阪城の極楽橋を渡り、かつてはこの橋は豪華絢爛な廊下橋であって、その遺構が琵琶湖の小島に行けば見ることができると思い、急遽滋賀県まで旅先を延長しました。長浜港発か、今津港発か悩みましたが電車の時刻表と観光船の時刻表を調べて長浜港が最善と考えJRの新快速に乗り込みました。船便は少なく、必ず発着時間を事前に計画していかないと時間を無駄にしますので気を付けましょう。(島から帰りの便も行先と時刻表は要チェックです。)私は往路は長浜港から、復路は今津港行きに乗りました。今津港行きは、拍子抜けするほど乗船者が少なく港の風景も風情がありました。(こちらのデメリットはJR近江今津駅の列車本数が少ないことです。JR時刻表は要チェックでしょう。)

長浜港は平日・月曜日にも関わらずご覧のような行列状態でした。長浜港の駐車場は満車の看板を目にしました。他所の駐車場を探して入庫したり、船チケットを並んで購入すると時間の余裕が無くなるので自家用車で行動の方は早めの移動をおすすめします。私はJR長浜駅からの徒歩でしたが、人が多いので少々焦りました。

右に伊吹山を眺めながら、船は30分程、竹生島へ進みます。ほどなくして、島に近づくと港の上に神社・寺院の建築群が見えてきて、いよいよ上陸へ気持ちが高まってきます。

いよいよ上陸です。数件の売店の前を通り過ぎると入島料(おとな(中学生以上)600円、小学生300円)の徴収があります。渡船代とは別ですのであらかじめ旅費として出費を覚悟しておきましょう。
料金所を通過するとすぐに石段を登ることになります。
この石段は手摺がないので結構堪えました。なお、境内の他の石段は手摺がありましたので、最初(帰りは最後)のこの石段だけが要注意です。

石段を上がりきると、右手に今回の旅の目的である唐門が見えてきます。



この島は古くから信仰の場として、琵琶湖に浮かぶ島として知られていました。訪問してみて、小さな孤島という地理的環境が政権の影響を及び難いものにしたのだろうと感じます。このため、唯一の大坂城の遺構の唐門や秀吉の御座船「日本丸」の船櫓(ふなやぐら)の材を用いたという伝承の渡廊(舟廊下)を実体験することができました。
帰りの今津港行きの船に乗り、島を振り返ると岩の岸壁が周囲を覆っています。私は他者の進入を許さないこの岸壁に豊臣の唯一の遺産が今も護られているように思えたのです。


