豊臣兄弟ゆかりの名城を行く(2-⑤)安土城

戦国古城の旅
OLYMPUS DIGITAL CAMERA

訪問日 2025.9.8

JR近江八幡駅前でレンタサイクルを借り上げ、午前中に近江八幡城を見学し、愛車にまたがり炎天下、次の目的地である安土城に向かいました。若いころと違い、けっこう自転車もキツイなと感じつつ安土山は目視で確認できるので、交通量の少ない市道を選んで進みます。スマホの地図を頼りにまずは西の湖方面に向かう市道を進みました。湖周りに自転車用道路があったので、利用させていただきました。

八幡城下を東へ進み、自転車専用道路から西の湖の湖岸越しに安土城全景を望みます。ここまでは、まだ体力が十分でしたが・・・
いよいよ安土城入山口が見えてきました。低山ながら結構な広さがある城域を実感します。

西の湖から安土山を遠望すると、かつての湖城の面影が彷彿されます。昼時を過ぎていたので食事のできる店を道々探したのですが、町はずれの道を通ったために見つけることができませんでした。料金所近くの「城なび館」でも食事ができないことを知り、そこで一番近い食事処は「県立安土城考古博物館」にあるレストランと教えてもらい自転車で向かいました。遠い!・・・自転車ではきついです。暑い!・・・レンタサイクルは季節を選びましょう。博物館のレストランでかき氷(宇治金時)とカレーをいただいて栄養補給して、もう一度安土城料金所へ向かいました。結構ここまでにお金も体力を使ってしまいましたが、料金所で入山料(大人 700円 小人 200円)を払い登城開始します。

大手道から石段を見上げる。安土山は200メートル近い標高があるので、夏季は体力の温存と水分の補給は欠かさないようにしましょう。傾斜はそれほどきつく無いので登山ではありませんが、階段を登る距離が長いです。

安土城について

1576年(天正四年)、織田信長は重臣の丹羽長秀を総普請奉行に据えて、近江の名城である観音寺城の支城があった安土山に築城を開始しました。3年後には、天主が完成し、信長が移り住んでいますが、1582年(天正十年)5月に徳川家康が迎えられ宴席が設けられています。この際に饗応(接待)役だったのが明智光秀で、この役で信長に酷い仕打ちを受けたことが本能寺の変の原因「怨恨による謀反説」の理由になっています。同月29日には本能寺の変が起きて、主を失った安土城は明智勢に占拠されましたが、翌月の山崎の合戦で明智勢も敗れ去り、混乱の中、原因不明の火事で、天主及び本丸建物が焼失したといわれています。その後、織田秀信が入城しましたが、1585年(天正十三年)豊臣秀次の八幡山築城に伴って廃城になり、城下ごと八幡へ移っていきました。

安土城は、瓦ぶきの屋根を持つ天主(天守)を建造し、大規模な石垣の構築も踏まえて近世城郭の祖といわれている城です。築城から廃城までの期間が数年と短く、天主の復元案も数多く出ていることから城郭愛好家の夢をかき立てる城になっています。

安土城大手道の石段を行く

安土城を訪問するのは4回目ですが、若かったころと比べて体力が格段と落ちているので休み休み石段を登っていきます。大手道の石段の各所に仏像石を見ることができます。これまで何度か安土城を訪問していましたが余り意識したことがありませんでした。おそらく、摠見寺が管理するにあたり、寺だけに仏を大事に思い、仏石に案内板やお賽銭が置かれるようになったことから、自分も初めて意識したのでしょう。掲示がなければ意識せず、踏みつけて階段を上がりそうです。

大手階段から下を見下ろす。さすがに休憩、一息入れました。夏日では日陰を探すのが大変です。
写真右下に石仏の案内板と賽銭籠があります。同様の所が他にもありました。

この仏石は、石段で数か所で発見しましたが、先に訪問した大和郡山城や福知山城で見た天守台の仏石を思い出させます。この時代の人たちは、迷信に弱く信仰心が篤いという思い込みが自分にあるため、当惑せずにはいられません。
https://ukari1595sirosuki.com/toyotomikyoudai-yamatokooriyamacastle/

織田信長は、仏教勢力が大きな勢力となって、武力を用いて敵対していたことから、仏の教えを体現した仏像を登城者に足蹴にさせて、偶像崇拝などは現世においては何の意味もないこと、信長の前ではただの石ころに過ぎないとを示したかったのでしょうか。現代人の私でも躊躇われる罰当たりな石仏再利用を平然と命じる人物に家臣達は仕えていたわけです。荒木村重、松永久秀、明智光秀という重臣達が、反乱を起こしたのは彼らにとって信長が異常なストレスを与えるパワハラ上司であったからではないかと私は思うのです。

安土城の主郭部と天守台をゆく

大手道から石段の折れを何度か進み、黒鉄門跡を通ると安土城の主郭部に到達します。ここらあたりの石垣は、あまり加工されていない大きな石を用いて規模も大きくなり、見ごたえがあります。特に天守台の石垣は上部は崩落していますが残された部分は実に豪快で、いつか全体が復元されたら嬉しいのですが。

安土城址の案内板より主郭部
天主台南側石垣。上部が崩れて樹木が覆っていますが、基部の石垣が残り規模の大きさが実感されます。

本丸に入り、ベンチで休息した後、いよいよ天主台に入ります。天主には、本丸取付台跡という一段高いところに登壇してから入り口に入ります。ここは発掘調査中(訪問時2025年9月現在)でしたが、発掘成果として建物の礎石が新たに発見されたようです。

本丸取付台の石垣と登壇部分の石垣です。この部分には建物がのっていたということでしょうか。

本丸取付台跡を経由して、天守台内部に入りました。

天主入り口
天主地階の礎石群です。ご存じの方も多いと思いますが真ん中には礎石がありません。

今回の訪問の目的の一つは、天主台の北側を見るということでした。天主台の北部分は3か所の折れがある鈍角で、地表露出の面積が最も広いという特徴があります。そのため、天守の最下層部分(1階)の外壁が天主台周り全部に巡っていた(例:岡山城)のか、空地を残して矩形に近い天守が建てられていたのか(例:会津若松城)を考えるポイントのように思えます。なお、天守復元(図)についての考察は、別の稿で後日設けたいと思っています。

現地案内板の天主台図面。図の右側が北になります。
崩落した天主台の1階部分の北側。あまり調査が進んでいるようにも見えない
天主台北側から、信長廟がみえるが、結構な高さで土砂で崩壊しています。

実際に天主台に登っていると、地階部分の穴藏はきれいにされていますが、天主台の北側崩落部分はまだ、手つかずのようでもあり、今後の発掘調査で大きな成果が期待されます。

安土城の天主台を見学し、疲れた足を引きずり下山しました。そしてJR近江八幡駅前のレンタサイクル屋さんまで自転車で帰りました。知らない町なので国道2号線沿いにペダルをこぎました。大型トラックの排ガスを浴びながら、腿の付け根あたりの筋肉に張りを感じ、体調不安を募らせながら夕方5時までに自転車をお返しして、JRで新大阪駅へ向かいます。新幹線による九州への帰還を果たしました。往路はフェリー、復路は新幹線というのも効率的な時間の使い方で満足な旅となりました。


広告