大洲城はなぜ日本最高峰の復元天守と呼ばれるのか?現存櫓と木造天守が繋ぐ江戸時代への旅  【藤堂高虎の城を行く】

復元天守

大洲城は、愛媛県大洲市にあります。
この城は、近年天守が復元され一見すると新しい木造天守です。しかし、この天守は全国でも屈指の復元精度を誇ります。
大洲城は、復元天守と連結する小天守を思わせる2基の現存櫓が一体となった貴重な城です。
大洲城は、観光客で混雑することの多い現存12天守に劣らない見ごたえのある名城ですが、落ち着いた城下と城の風景を自分のペースで堪能できるところでした。

築城名人・藤堂高虎を追う旅の第3弾として大洲城を訪れました。

結論|大洲城で見るべきは

大洲城は、「江戸時代初期に完成したばかりの天守」を体験できる、日本でも極めて珍しい城です。

大洲城の見どころは次のようになります。
・木造復元天守(四重四階の複合連結式 層塔型)
  ほぼ正確に復元された吹き抜け構造のあるまれな天守
・天守に連結する現存の二基の櫓(連結式を構成する高欄櫓と台所櫓)
  意匠と規模からいずれも小天守を名乗ってもおかしくない現存櫓  
・肱川越しの天守景観(町風景との見事な調和)
  大洲城は平山城で、城下からの景観は抜群に良い

基本情報

所在地愛媛県大洲市大洲903
入館料 (※2026年6月現在)大人 550円 小人 (中学生以下)220円
営業時間9:00~17:00 (札止16:30) 年中無休
駐車場大洲市民会館駐車場(有料)または、大洲市観光第一駐車場(無料)
アクセスJR伊予大洲駅下車徒歩 約30分
市内循環バスぐるりんおおず「大洲駅前」~「大洲城前」約10分

大洲城はどんな城?

伊予大洲藩六万石の居城

大洲城は鎌倉時代末期の宇都宮豊房の支配に始まり、戦国期に至って小早川隆景が35万石での伊予入封後、戸田勝隆と城主を変え、1595年(文禄4年)に藤堂高虎の入城で近世城郭として整備されています。

1609年(慶長14年)には、淡路の洲本から脇坂安治が転封されてきます。藤堂高虎と脇坂安治で現在見られるような城の姿が形成されたと考えられています。1617年(元和三年)には、6万石で加藤貞泰が入り、以後は加藤氏が12代に亘り大洲城を明治まで治めています。

明治時代以降、1888年(明治22年)に天守は解体されましたが、当時の工法・木造を用いて、2004年(平成16年)に復元されています。復元にあたっては、外観が明瞭に判明する古写真のほか、天守雛形(木組み模型)など内部構造を知ることができる資料が充実していたため、往時の姿がほぼ正確に木造復元されています。

大洲城天守内部では、まだ木目も新しい新築の復元天守を、体感できます。小天守格の二つの現存櫓と接続されており、これらの新旧と比較することも大洲城ならではの醍醐味です。

藤堂高虎が近世城郭へ整備した城

築城名人といわれた藤堂高虎が、伊予7万石の大名として大洲城に入城したのは1595年(文禄4年)です。高虎は宇和島城を本拠にしており、大洲城には城代を置いたとされていますが、この時に本丸とその周辺が整備され城の基礎ができたといわれています。
高虎による近世城郭への歩みが、大洲城発展の土台となったのです。

その後、1609年(慶長14年)、淡路国洲本から脇坂安治が大津城を1617年(元和3年)まで居城として整備しています。大洲城天守は、層塔型で飾りの破風を多用している点などから、私は年代的に脇坂時代に築造されたものと考えています。

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なぜ大洲城は日本最高峰の復元天守なのか

古写真が残っていた

天守は1888年(明治21年)に解体されています。明治時代の中頃近くまで存在したことから、古写真が3枚残されています。

天守の雛形が残されて柱建てなど建物の骨格が判明しても、外観である破風の種類や配置、外壁の仕様や窓の形状などは詳細な資料がなければ判明しません。
そこで、現物を写した明瞭な写真は最も復元に信頼がおけるものです。
大洲城は、雛形と古写真の両方が在ることで、ほぼ旧来の姿を復元することが可能になっています。

大洲城の窓には華頭窓が二重目に配置されていますが、これなど大洲城独自のスタイルで、なぜ最上階でなく中途半端な二重目のみが華頭窓なのか説明するのが難しく、おそらく明瞭な古写真がなければ完全復元できなかったかもしれません。

現地の「展示パネルの古写真と現在の天守を見比べると、破風や窓の位置まで驚くほど一致していました。」

天守の雛形で、建物の骨格を復元できても、細部の仕様については詳細な絵図や古写真がなければ正しい復元は困難ということになります。また、詳細な城絵図の存在が建築年代の変遷を読み解く鍵にもなります。
明治初期の古写真で外観の詳細が判明し、天守の正確な復元が実現しています。

天守雛形が残っていた

天守雛形というのは、上の写真にもあるように、天守の木組みの模型のことです。大洲城のものは、藩の大工棟梁家に伝わったという縮尺20分の1の雛形です。天守本体の建築に先立って立体的な模型で構造上の確認を行う、または経年劣化による修理を行う際に必要とされていたようです。
天守を木造復元するには、柱建ての平面図・立面図が最低限必要になりますが、木組みの模型はこれに代わるものとして貴重な存在です。

これは天守内で展示されている復元天守の木製雛形です。これとは別に江戸期の天守雛形が現在まで残されています。江戸期の柱位置など木造復元に必要な情報があることで天守の木造復元が可能になったのです。

詳細な絵図も残っていた

元禄時代に書かれた「元禄五年大洲城絵図」という絵図が残されています。これと古写真に写された姿を比較することで1692年当時の大洲城の姿を確認することができます。ここに描かれた天守の姿は、古写真のものとは破風の位置など同様で、江戸期前半から明治期に解体されるまで、大規模な改修もなく、ほぼ同一の形状で天守が維持管理されてきたことが分かります。

大洲城内の全体の様子は、このような城絵図により確認できます。城絵図も詳細で、古写真・木製雛形・江戸期の絵図の3つを確認して天守復元に必要な正しい情報を確認できるのです。

大洲城は、古写真・天守雛形・城絵図の3点セットが揃っている珍しい城郭です。
想像で復元した天守ではなく、資料から復元した天守です。

現存櫓と復元天守がつながる全国でも珍しい景観の城

大洲城のユニークな点は、天守を構成する建築群において、天守は新築再建で、二つの連結する小天守格の櫓が現存であることです。
通常、昭和や平成の多くの復元天守は天守だけの新築や周囲は石垣だけ残るものも多いのです。大洲城と同じ様式のものでは、広島城がかつては2基の小天守を連結し、戦災前までは東廊下の一部まで残っていましたが、外観復元(鉄筋RC造)の際は天守のみ新築されていますので二基の小天守を従えた雄大な姿までは復元されていません。
また、伊予松山城天守は天守のみが現存ですが、天守に接続する隅櫓と小天守は昭和期の木造再建で再現しており、大洲城とは逆パターンといえましょう。

左から高欄櫓、天守、台所櫓の天守建築群を見ます。高欄櫓は高欄や唐破風を配し装飾的で他の櫓と一線を画しています。台所櫓は大型という点で明らかに他の櫓と一線を画しており、いずれも特別な櫓であったことが分かります。
五重の広島城天守は2基の小天守を巨大な廊下で接続した複連結式で、大洲城と同じ建築構成ですが、第二次大戦後は天守のみが単独で外観復元されています。手前は小天守台の石垣です。
伊予松山城は三重の天守(写真奥)を二重の小天守(写真中央)と2基の二重隅櫓で連結していますが、天守は現存、その他は木造復元であるので、大洲城の逆パターン(四重天守は復元・二重櫓は現存)といえます。

大洲城は
・台所櫓(重要文化財)
・高欄櫓(重要文化財)
の現存建物と天守が連結しているのですが、中に入ってみると、江戸時代の建物と平成復元の建物が廊下伝いで違和感なくつながっている感じがしました。

大洲城内の高欄櫓では、在りし日の全体模型を観覧できます。丘の上に建つ天守を中心に多くの二重櫓で防備を固めた平山城であることが分かります。

台所櫓について

台所櫓の入り口です。この江戸期に建てられた古い木造建築から廊下(左側)内を歩いて、復元された天守に一体的に入っていきます。

台所櫓は、大洲城の櫓の中では最大級(平六間に妻四間)の大型の二重櫓で、天守とは渡櫓で連結されています。現在、天守に入るには台所櫓の入り口を経由しますが、規模において実質的に小天守といえるものです。名称の通り台所が内部に有り、土間を配して煙出し用の格子窓が開けられています。現在の台所櫓は幕末期の1859年(安政6年)に再建され現在に至っています。かつての大洲城は和歌山城や伊予松山城のように本丸の上段部分が天守と櫓・多門櫓を中心に建物が一周して接続していました。台所櫓では天守の反対方向に多門櫓が接続していました。

台所櫓(現存)の入り口が二か所あるように見えますが、写真手前の側はかつて多門櫓(廊下)で接続されていました。現在使われていない手前側の引き戸はかつては、別の建物との間の仕切りだったと推定されます。

高欄櫓について

高欄櫓は、天守に接続されているいわば小天守ですが、大きさは台所櫓の半分もありません。しかし、二階に高欄を持ち屋根に唐破風を据えている城内で別格の櫓です。

高欄櫓は城内で唯一2階に縁と高欄のある櫓です。現在の高欄櫓は、台所櫓同様に、幕末期に地震で大破したものを、1860年(万延元年)に再建したものです。天守とは渡櫓で連結されており、三間四方の大きさで規模は台所櫓に劣りますが二階に高欄や軒唐破風を付けて華やかな印象を与えており、この櫓も意匠において実質的な小天守といえる建物です。

高欄櫓は二階まで内部にあがって見学が可能です。手すりの高さも低く、見せかけの高欄であることが分かりますが、肱川や城下の風景を見渡せます。

新築天守と江戸時代の櫓を同時に見学できる

大洲城天守に入る順序は、まずは台所櫓に入って入館の手続きを行い、現存建築物から廊下伝いに新築の復元天守1階に入ります。大洲城の天守群の建物は、本丸石垣の塁線上に建てられており、天守台を別に築いていないので他城天守のように天守台の石階段を登る必要はありません。天守を最上階まで登ると大洲の城下と肱川の風景を見ることができます。

天守窓から肱川を見ることができます。この河川は大洲城の東を敵から遮断する堀の役割を果たしていたことが分かります。

大洲城で江戸時代にタイムスリップする

木の香りが残る天守内部

大洲城天守は外観だけでなく、内部も江戸期のものが木造復元されていますが、この城独自の特徴がありますのでご紹介します。

① 大柱(心柱)の存在

木造建築で二階分以上を通して立ち上がる柱を通し柱といいますが、このうち特に太くて長いものを大柱(心柱)と呼んでいます。私たちがイメージする天守の始まりである安土城の場合、『信長公記』という記録で地階から長さ8間(地上三階相当の高さ)の通し柱があったと記されています。このような長大な柱を使うのは、建物の安定性を保つためと思われますが、実物では姫路城の現存大天守内部で東西2本の大柱を見ることができます。大天守の中央に大柱を一本立てる例として大洲城の天守があります。

写真は、姫路城内の通し柱(東大柱)。

大洲城の天守は4重4階ですが通し柱として、天守中央に太い大柱を1箇所用いて建てられています。二階の梁で継がれていますが、1階から最上階まで心柱としての役割を果たしていると考えられます。天守内の階段付近で見ることができるので注意して一回り大きな柱を発見しましょう。

写真中央の大柱が大洲城の通し柱です。1階から4階までの通し柱で建物の構造上の安定を図っていました。
天守最上階(四階)内部写真。中央の大柱は上部の梁で受けられていますが、天井には板が張られていないのが分かります。

②非常に珍しい吹抜け構造

大洲城の天守内部を見学すると、一階から二階の中央で、床が張られず階下が見えてしまう吹抜け構造になっているところがあります。現代では商業モール施設などで上下空間を広く見せるために吹抜け構造を見ることができますが、天守建築では大洲城以外に見ることがありません。安土城の指図(平面の設計図)といわれた『天守指図』は安土城天主に吹抜けがあることが図示されており(※現在も真贋論争あり)これに基づいた安土城復元図が多く紹介されていたのを思い出しました。

吹抜け構造になっていると、下階の様子が丸見えになりますが、なぜこのような構造にしたのか想像が掻き立てられます。

これまで登った現存天守では階段は概ね建物の端部にありました。大洲城の場合は建物の中心にあり、その構造も吹抜け構造とセットになっています。また、そのせいで心柱である1本の大柱も、やや中心からずれて建てられています。大洲城天守は、層塔型天守で年代的には藤堂高虎の後の脇坂安治時代といわれており、まだこの層塔型天守の様式の発展途上にあったことから、このような柱建てが発案されたのかとも想像しています。

現存天守では味わえない「完成直後の姿」

大洲城天守は、平成復元の新築天守です。柱や梁・床といった建物内部は未だ美しく、同日に訪問した宇和島城とは実に対照的に見えました。
宇和島城は、古びた柱や床材の軋みなど数世紀間の風雪を耐え抜いた文化財としての重みを感じさせる天守を見ることができます。
一方、大洲城では、そうした風格は天守に棟続きの台所櫓・高欄櫓で体験しつつも、未だ新材の香りと明るさが残る天守内部の木造建築に触れることで、完成直後の天守の様子が再現されていると考えることができます。
昭和期に再建された伊賀上野城天守も同じ木造天守ですが、模擬建築なので構造的なリアリティでは大洲城とは比較になりません。やはり、木造再建天守としては四重という規模も含めて大洲城が国内で最高ではないでしょうか。

壁も木材もまだ真新しいように見えます。かつての江戸期の新築の天守もこの様な時期があったでしょう。

私が最も感動した景色

大洲城は、肱川に突き出す標高約20m地蔵ヶ嶽という小丘に建てられています。
ここには、私は船を乗り継ぎ自家用車で大洲城に向かいましたが、市街地に近づくと見えてくる天守の景観は忘れがたいものになっています。おそらくこのくらいの比高の天守が平地からは最も美しく見えるのかもしれません。

天守の破風構成は江戸城天守(寛永期)と同じです。層塔型天守の江戸城が存在した時代は、このような外観ではなかったかと思います。

また、個人的な感想ですが大洲城の天守の破風配置は、現在見ることができない寛永期江戸城天守に良く似ています。江戸城は五重で大洲城は四重ですが、妻側と平側の唐破風・千鳥破風の配置順が同じです。大洲城天守の創建に、当時の江戸城天守の外観(慶長期か?)が影響を与えた可能性を考えます。

大洲城おすすめ撮影スポット

肱川から見る天守

大洲城は肱川を借景に撮影した天守も美しく良く紹介されています。時間に余裕のある方は、城下町見学とともに肱川沿いを歩いて城を撮影するのもおすすめです。車で移動できる方なら肱川対岸から見る天守は格別の撮影スポットになるはずです。

肱川沿いに歩いて天守を撮影しました。天守は小丘の上に建ってあるので、少し離れた城下の川向うが最も美しく撮れそうです。

復元天守と現存天守を一緒に撮る

大洲城天守は二基の小天守級の櫓で連結されています。この現存櫓を一緒に撮ることで様々な天守の姿を楽しむことができます。

天守と高欄櫓。天守には高欄がありませんが、付属する櫓に高欄を設けて格式を高めるのは松本城と同じ発想のように思えます。
天守と台所櫓。天守外壁には窓しか無く、台所櫓か渡廊下経由で入る構造になっているのが分かります。

FAQ

天守は本物ですか?

平成16年に木造で再現された復元天守です。小天守となる棟続きの台所櫓と高欄櫓は江戸時代に再建されたものです。

なぜ評価が高いのですか?

現存12天守を除いて、昭和以降に再建された天守は完全な資料による江戸期の正確な復元と言い難いものが大半でした。大洲城は、古写真・絵図・木型模型・発掘調査資料という復元に必要な資料がほぼ揃っており江戸期そのままの天守を新築の天守で体験できるからです。

所要時間は?

60~90分です。城下町を探訪する場合は2時間程度は必要と思います。

現存建築はありますか?

4棟の現存櫓があります。本丸の天守に連結する「台所櫓」「高欄櫓」の他に肱川に面して建つ「苧綿櫓」三の丸に「南隅櫓」という二重二階の櫓があります。
また、市民会館駐車場横に「下台所」の遺構を見ることができます。

城外にある下台所です。天守横の台所櫓と比べて、その形状・大きさから年貢米や兵糧の貯蔵庫としての役割もあったのでしょうか。

まとめ

大洲城は、現存天守ではありません。

しかし、だからこそ江戸時代に完成したばかりの天守を体験できます。

江戸期から残る櫓と、最新技術で旧状の姿でよみがえった木造天守。

過去と現在が一つにつながる景観は、他の城では、なかなか味わえるものではないのです。

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