福岡城では、築城当時から天守建造が計画されていた可能性は高いと考えます。しかし、実際に天守が完成して短期間存在したかどうかは、現在の史料と発掘成果だけでは断定できません。
本記事では、天守実在説と非実在説の根拠を比較し、現時点でどこまで分かっているのかを検証します。
【先に結論】
・古文書や城の構造を総合すると、福岡城に何らかの天守建築が一時期存在した可能性は高いと考えます。
・ただし、それが大天守だったのか、完成した外観がどのようなものだったのかを直接示す決定的な資料はありません。
・2025年度の発掘調査でも存在の断定には至らず、現在は2026年度の追加調査が進められています。本記事では、「存在した可能性」と「なお分からない点」を分けて検証します。
福岡城と巨大な天守台
福岡城は、福岡市中央区にある九州屈指の大規模な近世城郭です。関ヶ原の戦い後、黒田長政は豊前中津12万石から筑前52万石へ加増・移封され、博多に近い福崎の丘陵地に福岡城を築きました。
福岡城は、江戸時代を通じて黒田氏の居城となり、別名「舞鶴城」「石城」とも呼ばれます。現在、城跡周辺は舞鶴公園や大濠公園として整備され、市民の憩いの場になっています。
福岡城には、天守が現存していませんが、巨大な天守台や石垣、国の重要文化財である多門櫓など、往時の規模を伝える遺構が残っています。
本記事では、その天守台に実際に天守が建っていたのかを検証します。
アクセス
福岡城の交通アクセスは、福岡市地下鉄空港線「大濠公園駅」5番出口から、舞鶴公園まで徒歩5分です。博多駅・天神駅・福岡空港からは、地下鉄空港線を利用してアクセスできます。


黒田孝高(官兵衛・如水)について
黒田孝高(官兵衛・如水)は、軍略や築城に優れた武将として広く知られています。一方、後世の小説や映像作品によって、「深謀遠慮の軍師」という人物像も広く定着しました。
如水には、関ケ原の戦いに乗じて九州で勢力を広げ、天下をうかがったとする人物像があります。そのため、福岡城に天守を設けなかったのも、徳川幕府へ野心がないことを示す深謀遠慮だったと説明されることがあります。
黒田氏が豊前中津から、筑前に移封されたのは関ヶ原の戦い後です。福岡藩初代藩主は長政であり、築城方針を如水だけで説明することはできません。また、本丸の縄張りや天守台の遺構からは、少なくとも築城当初に天守建造が計画されていた可能性が高いと考えられます。
初代藩主 黒田長政について
福岡築城当時の藩主は、黒田長政です。長政は関ケ原の戦いで調略に功績を挙げる一方、城井氏との対立、細川氏との緊張関係、重臣・後藤基次(又兵衛)への奉公構など、両国支配をめぐって厳しい判断を重ねた武将でもありました。
福岡城の本丸は天守台を中心に防御施設が配置されており、築城計画の段階で天守台が重視されていたことがうかがえます。
福岡城築城時の藩主は長政であり、最終的な築城方針には長政の意向が強く反映されたと考えられます。
天守台は天守建造の証拠になるか
福岡城は長く、「天守が建てられなかった城」と考えられてきました。しかし近年、天守の存在をうかがわせる文書が確認され、実在説も改めて検討されています。本丸の縄張り、穴蔵を備えた天守台、礎石の存在から、少なくとも築城当初に天守建造が計画されていた可能性は高いと考えます。ただし、完成した天守が実際に存在した時期や、建造中止・解体の経緯を確定できる史料は、まだ十分ではありません。


『天守はなかった』説の根拠とは
福岡城に天守が建てられなかったとする説では、主に次の理由が挙げられています。
徳川幕府への遠慮から、天守建造を控えたとする説
福岡城に天守が建てられなかった理由として、従来から挙げられてきたのが「徳川幕府への遠慮」と「天守不要論」です。
元和元年(1615年)以降、幕府が大名統制を強めた時代の説明としては成り立ちます。
しかし、諸大名が盛んに築城した慶長期まで同じ理由で説明できるかは疑問です。
外様大名の城でも、天守を設けなかった例はあります。しかし、それだけで福岡城に天守がなかったと結論づけることはできません。新領国へ移った長政にとって、城下町と新たな支配の象徴となる建物を必要とした可能性もあります。
また、大坂で豊臣氏が健在の時代背景では、再び全国的な騒乱が起きた場合、福岡城下へ敵兵が侵攻した場合、籠城戦が行われる可能性も考えていたと思います。
一方、慶長期の築城時に天守が建てられ、幕府の権威が確立した元和期に黒田家が自ら解体した可能性も、検討すべき仮説の一つです。
黒田如水が、これからの時代に天守が不要だと判断したとする説
如水が合理的な人物だったため、天守を不要と考えたという説があります。しかし、福岡城築城時の藩主は長政であり、如水の人物像だけを根拠に天守不要論を説明するには、直接的な史料が不足しています。
大天守はなかったが中天守・小天守などが代用天守だったとする説
建築された中天守・小天守が代用天守たりえるかという話です。
1638年(寛永15年)に「御天守台廻りの御矢倉長屋御除き候段申し上げ候処、御尤もに思し召し候」とあるそうです。おそらくは、これが現在中天守・小天守といわれている建物のことだと思いますが、これらを代用天守として黒田領内で「天守」と呼んでいたというのは、現地の規模感から見て違和感を感じるのです。天守の脇に建造された二重の多門櫓で隅部に三重の望楼部分を持つ武具櫓と比べても、中・小天守は規模が小さく、代用天守として考えるのは疑問符が付きます。



『福博惣絵図』における「天守台」と「矢倉跡」の表記の違い
1646年(正保三年)に作成された『福博惣絵図』には、大天守台に天守は描かれず、「天守台」と記されています。一方、現在の中天守台・小天守台に当たる場所には「矢倉跡」と記されており、この表記の違いが天守非実在説の根拠の一つとなっています。ただし、「天守台」が建物の有無ではなく、場所の名称として使われた可能性もあります。そのため、この絵図だけで天守が一度も建てられなかったと断定することは困難です。
「矢倉跡」という表記からは、これらの櫓台上に何らかの建物が存在したことがうかがえます。しかし、その規模や外観、役割までは、この絵図から判断できません。
完成後、短期間で天守を解体する合理的な理由が見当たらないこと
建設されて二十年に満たない五重規模の天守を、幕府への配慮から取り壊すのは簡単なことではない、領民が納得しない、よって天守は最初から存在しないという考え方は有りでしょうか。私は江戸初期時代の領主と領民の関係は、身分的に絶対的な上下関係が存在するため、領主には逆らえないものと考えていました。領主が勝手に天守を解体したら、領民が納得せず一揆などで統治に影響がでるのでしょうか。城普請と領民の反乱が結びついたものに1637年の島原の乱が思い起こされますが、4万石の石高しかないのに、島原城は大規模すぎる城郭であり、領民が重負担に堪えかねて一揆をおこすというのも理解できる気がします。一方、筑前福岡藩は52万石の大藩でした。城の規模は石高相応と思われ、建築物も実用的で質素にしているため、取り壊しが決まれば領民はただ見ているだけのように思えるのです。
江戸時代の農民は年貢のほかに臨時の夫役(ぶやく)という大きな負担を課せられます。領民には大迷惑だったのは間違いないと思いますが、何かあったら領主から厳しい責めを追う時代です。領民の意向など一顧だにされなかったと思うのです。
築城費用が不足し、天守建造の機会を失ったとする説
築城時の財政面の話題になります。年代でいうと1601年(慶長6年)から1607年(慶長12年)の期間で築城開始から一応の竣工を得るまでの財務状況です。
これは天守が建てられなかった場合の理由として、案外ありうることかもしれません。黒田藩は慶長5年に豊前中津より筑前国へ転封する際に、年貢米を先取りし、そのため後で豊前に入国した細川藩との関係が悪化したという事件がありました。両者では軍事的な緊張が増して、黒田側では豊前国との国境に六端城といわれる主郭を石垣で巡らした支城網を構築します。また、先取りした年貢米は、国替えの作法を無視して黒田が行ったことから、分割して返済したと伝わっています。また、黒田長政は検地を行って52万石で表向き幕府に申告しましたが、前領主の小早川氏の石高は30万石で極端に増えており、水増し申告したのではないか、実際の経済力は低いのではないかという疑惑も持たれているようで、財政的には厳しい状況だった可能性があるかもしれません。

財政的な厳しい経済事情が築城時に影響して、天守台を含む本丸石垣までいったん築き、城郭としてベースの防衛を構築したうえで天守建造を先送りにした。そのうち幕府の五重天守の規制が強まり、天守台規模相当の五重天守が建てられなくなってしまったは有りの気がします。
その一方で、福岡城に限らず城郭を整備するときは軍事・政治面で重要な所から始めるのを常識的な考え方だとすれば、本丸の普請とそれに伴う天守・御殿の建設が最優先される事例が一般的に思われます。天守の築造を計画しておいて、築城当初から予算不足があり得るのか疑問な点です。
完成した天守の姿や存続を直接示す記録が乏しいこと
これは、天守が在ったのではないかと考えている私も、以前より気になっていました。天守が存在した可能性を十数年間とすると、約260年間の江戸期の中では、随分短い期間のように思われます。しかし、存在期間、城下で日常的に起居していた人たちは、相当期間、天守とともに生活しているはずなので、撤去後に身内や子孫に伝えたくなり、口伝なり記録なりで天守の様子が伝わるものと思います。黒田藩の公式記録から意図的に天守のことが隠されていたとしても、城下の領民まで天守の記憶を封じることはできないので、具体的な内容が伝わりそうに思います。
ところが一方で、近年、甲府城の天守台付近から大きな鯱瓦の破片が発掘により出土され甲府城に天守があったということがほぼ確実視されている事実があります。甲府城は福岡城と同様に天守の文献記録が乏しく、天守台のみ築かれた城と従来から思われてきました。具体的な口伝や伝承がなくても、考古学的に存在が確かめられるケースもあるので、2025年以降に本格的に行われている福岡城天守台発掘調査というのは重要です。
強風を受けやすく、大型天守には不利な立地だったとする説
福岡市に住んでいたころから、何度も福岡城を訪問した機会があります。玄界灘は風が強い海だという認識はあります。しかし、これまで福岡城で建物に影響を及ぼすほどの強風を感じたことがありません。福岡城は梯郭式平山城に分類されています。正確な本丸の標高はわかりませんが、感覚的には丘レベルです。
もちろん、天守台は城内の最高所にあるので風も強く当たり、台風や落雷などの自然災害を最も受けやすい場所に在ると思います。他の平山城の例を見ると姫路城、熊本城では五重天守を小山の上に建造しており、福岡城のみが強風のため建造できないというのは今一つ、他城との比較から違和感があります。強風説が正しいなら、そもそも五重規模前提の天守台は築かない縄張りになっていたように思います。
『天守はあった』説の根拠とは
本丸の縄張りが天守を前提としていたのか
黒田長政は、黒田孝高(官兵衛・如水)の嫡男として、初陣以来、羽柴秀吉の国内統一戦に従事、黒田父子で豊前国を与えられると1589年(天正17年)、父の隠居により家督を継いで黒田家当主となりました。築城面では、豊前馬ケ岳城、中津城と居城を変遷していますが、父の代であり本格的に築城の才を発揮したのは朝鮮の役からではないかと考えています。
天守台に残る礎石は何を示すのか
天守があったと考える際に、天守台が穴蔵を持ち礎石が残されていることは重要なことだと考えています。これは、かつて建物が設計されていたか、実際に存在したことの根拠になり、ここまでの準備をしてなお、具体的で明確な理由がないと取りやめることがないと思えるからです。この期間に黒田家内部や対幕府に天守建造を中止するような危機的状況を示す情報は無いように考えられます。

黒田長政の朝鮮出兵と倭城築城の経験
朝鮮の役が始まると黒田長政は黒田兵を率いて渡海します。機張倭城(キジャン倭城)は、朝鮮の役の際に黒田長政父子によって築かれたものです。本丸周辺の縄張り図を見ると、南西隅の防御は複合式の天守台に依存しており、天守が単なるシンボルタワーでなく実戦に不可欠な存在であったことが分かります。倭城については多くの城に天守台が設けられ、天守も建造されていたことが、国内、朝鮮・明の絵図や記録、出土物で示されています。守城戦で死線を潜る体験をしており、福岡築城では、この体験が生かされているのは間違いないと思います。
天守が本丸防御の要だったのか
福岡城の天守周辺での縄張りは、非常に堅固なものです。本丸は大中小の天守台を境にして南北に分断されており、天守台南側は武具櫓を挟んで詰丸的な空間を持っています。不完全ですが姫路や伊予松山城の連立天守を彷彿させるものです。この実戦的な縄張りにおいて上から銃火を撃ち落とせる天守があるのとないのでは、戦略的に大きな差があるように感じます。
このため、福岡城が縄張り的に天守を本丸防戦の要としているのなら、天守を築造するのは最優先になりそうな気がします。黒田長政の実戦経験は、朝鮮の役で磨かれ、籠城戦を経験していくことで本丸防備のなかで天守を活用する意識が高くなったことが想定できるのです。
福岡城の場合は、天守台に建物(大・中・小天守)があるのとないのでは全く本丸の防御能力に差があるため、築城当時は天守を上げることは築城の至上課題であったように思えます。

福岡城を描いた絵図はどこまで信頼できるか
2024年(令和6年)12月20日に福岡城天守の復元的整備を考える懇談会が公表した『福岡城天守の復元的整備についてー報告と提言ー』では、天守の外観を検討する資料として、複数の絵図や模型写真が紹介されています。ここでは,それぞれの資料が福岡城天守の外観をどこまで伝えているのかを検証します。
『九州諸城図』
『九州諸城図』は慶長16、17年(1611・1612年)頃、毛利氏側が九州各地の城郭を調査して作成したとされる絵図です。福岡城の図には、御殿状の建物とともに四重に見える高層建築が描かれています。この建物を天守と見るなら、その存在を考えるうえで重要な手掛かりになります。一方、この絵図は城郭の位置や概略を示したもので、屋根の重なりや破風などの細部まで正確に写したものか分かりません。したがって、天守の存在を示す傍証になっても、重数や外観をそのまま復元するための資料として扱うには慎重さが必要です。
『西国筋海陸絵図』
『西国筋海陸絵図』は、寛文8年(1668年)に作られた、大坂から九州北半までの城郭などを収めた絵図で、17世紀前半の『西海航路図』を改訂したものとみられています。
福岡城には、白壁の五重に見える高層建築が描かれ、初重や中層には破風らしき表現も確認できます。
赤穂城や明石城の描写には実際の姿と会う点がある一方、姫路城は重数や破風の構成が正確でなく、描写の精度は城によって異なります。
また、作成年は福岡城天守が破却されたとされる元和6年(1620年)から約半世紀後です。過去の情報を引き継いだ可能性はありますが、天守の重数、壁の色、破風の配置を確定する資料として扱うには慎重な検討が必要です
絵図全体は、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できます。
『福岡城下絵図』
『福岡城下絵図』は、福岡藩の家老職を務めた吉田治年が、享保7年(1722年)から11年間かけて編纂した『吉田家傳録』に収集され、享保18年(1733年)頃の成立とされています。福岡城と城下を俯瞰した図で、城内には四重に見える高層建築と二棟の三重櫓が描かれ、高層建築には切妻破風らしき表現も確認できます。ただし、元和6年(1620年)頃に天守が破却されたとする説に従えば、制作はそれから一世紀以上後です。過去の姿が伝えられた可能性がある一方で、城の威容を象徴的に表現した可能性もあります。そのため、天守の存在を考える参考資料にはなりますが、重数や破風の構成を確定する資料とは言えません。
『九州日報(現・西日本新聞)の記事に掲載された「福岡城大天守閣の模型」写真』
大正11年(1922年)3月18日付の『九州日報』(現・西日本新聞)には、「福岡城大天守閣の模型」とされる写真が掲載されています。この模型は天保6年(1835年)11月に藩が作成したとされ、黒田家の重臣・明石氏が所持していた古図を参考にしたとみられていますが、現物は第二次世界大戦中の空襲で焼失しました。写真では、下見板張りの五重の天守で、四重目には唐破風に見える装飾、最上階には華頭窓のような開口部が確認でき、全体は層塔型に近い構成に見えます。ただし、模型の製作は福岡城の築城から二百年以上後で、参考にしたといわれる古図も現存していません。どの部分が古図に基づき、どの部分が制作時の推定なのかを検証できないため、天守の姿を考える重要な手掛かりではありますが、外観を確定できる資料とは言えません。
以上の絵図や模型写真は、福岡城に高層建築が存在した可能性や、後世に伝えられた天守像を考える手掛かりになります。しかし、制作された年代や目的、描写の精度にはそれぞれ検討すべき点があり、天守の重数、構造、外壁、破風の配置などを正確に復元できるだけの資料は、現在のところ確認されていません。
中天守・小天守は大天守の代わりだったのか
ここでは、中天守台・小天守台上の建物が、大天守に代わる「代用天守」だった可能性を検討します。
福岡城の復元CGでは、中天守・小天守が二重または三重の建物として描かれています。ただし、外観を確定できる史料は確認されておらず、推定を含む表現です。櫓台の規模や城内の他の櫓と比較すると、小天守は二重、中天守は小天守に続く渡櫓に近い建物だった可能性も考えられます。
1638年(寛永15年)に10月11日付の明石四郎兵衛書状には、「御天守台廻りの御矢倉長屋御除き候段申し上げ候処、御尤もに思し召し候」と記されています。この「御矢倉・長屋」が、現在、中天守・小天守と呼ばれている区域の建物を指す可能性があります。ただし、「御矢倉」を小天守、「長屋」を中天守に対応させる見方は、現段階では推定にとどまります。
これらの建物が築城当初から代用天守として認識され、黒田領内で「天守」と呼ばれていたとする説には、なお検討の余地があると考えます。

また、大天守台の西側に接する付櫓台には、『福博惣絵図』によれば、単層および二重の櫓があったとみられます。この建物は「天守櫓」とも呼ばれますが、付櫓を代用天守とみなせるかは、慎重に検討する必要があります。
一般に、「代用天守」とは本来の天守が失われた後、城内の主要な櫓が天守に代わる役割を担ったものを指します。例として、江戸城の富士見櫓や弘前城本丸の三重櫓(現在の天守)、鳥取城の御三階櫓が挙げられます。
ここからは私見ですが、小天守・中天守・天守櫓と呼ばれる天守台周辺の建築物を「代用天守」とみなすことにには疑問が残ります。天守が城内の象徴として成立した経緯を考えると、これらの建物だけで天守の役割を代替したと考えにくいためです。むしろ規模の面では、南二の丸にあった南三階櫓の方が、代用天守に近い建物だったと考えられます。また、天守台のすぐ南側には、両端に三重櫓を備えた二重の多門櫓「武具櫓」があり、明治時代まで城内最大級の威容を示していました。このため、中天守・小天守・天守櫓を代用天守とみなすには、武具櫓との規模や役割の比較が必要です。また、他藩の代用天守には「御三階」「三階櫓」などの呼称例があるため、福岡城で用いられた呼び名も検討材料になります。
これらの建物が大天守台から離れ、独立して建っているのであれば、代用天守とみなす余地があります。しかし、実際には巨大な天守台に接しており、二重または三重の建物だけを天守の代わりと認識していたのか、疑問が残ります。
2025年(令和7年)2月28日に福岡市が公表した「福岡城天守台発掘調査の許可について」には天守台の名称に関する重要な説明があります。
同資料によれば、福岡城の天守台は大・中・小の3区画で構成されています。ただし、「大天守」「中天守」という呼称は江戸時代の文献には見られず、明治以降に使われるようになった可能性があります。一方、「小天守」という呼称は、『御要害作事箇所附』の安永6年(1777年)の記録に確認できます。ただし、これは当時その場所に「小天守」と呼ばれていたことを示すもので、建物の存在を証明するものではありません。
このことから、築城当初から現在と同じ名称や役割で認識されていたとは断定できません。したがって、中天守台・小天守台上の建物を代用天守とみなすには、なお検討が必要です。
2025年度の福岡城天守台発掘調査で分かったこと
2025年(令和7年)12月、福岡市経済観光文化局は『福岡城天守台調査の経過報告について』を公表しました。報告には、天守台内側の穴蔵部分で行われた発掘調査の状況、出土品、今後の予定がまとめられています。
主な内容は次の三点です。
① 礎石と根石の状態
地表に見えていた礎石の下から、江戸時代の工法で据えられた根石が見つかり、礎石が江戸時代の状態を保っていることが確認されました。
② 瓦片と鉄製品の出土
巴文のある軒丸瓦片1点と、釘とみられる鉄製品2点が出土しました。このうち1点は、X線撮影によって長さ約6センチ(2寸)の和釘と確認されました。
③ 調査後の予定
報告書の公表時点では、石垣調査と地盤調査を2026年(令和8年)2月まで継続し、出土品の分析・整理を進める予定とされていました。

軒瓦と釘の出土は何を語るのか
福岡市の経過報告によれば、出土したのは巴紋のある約4センチの軒丸瓦片1点と、釘とみられる鉄製品2点です。このうち1点は、X線撮影によって長さ6センチ(2寸)の和釘と確認されました。これらは、建物の存在を考える手掛かりになりますが、福岡市も、釘の出土だけで天守の存在を断定できるものではないとしています。
一方、出土点数が少ないことだけを理由に、建物がなかったと判断することもできません。現段階では、出土品の用途や年代について、今後の分析結果を待つ必要があります。
発掘前は、天守台を調査すれば、天守の存否を判断する決定的な証拠が得られるのではないかと考えていました。一方、天守が計画的に解体されたのであれば、柱や瓦などの資材が再利用のために運び出され、遺物がほとんど残らない可能性もあります。
実際の調査では、瓦片と鉄製品が少数出土しましたが、これだけで天守の存在・不存在のどちらかを決めることはできません。今回の成果は、発掘調査だけで結論を出す難しさを示しており、遺物の年代や用途の分析、天守台の外側を含む追加調査、文献資料との照合が必要です。
さらに、天守台内には後世に蔵が置かれていたとされています。この蔵が瓦葺だったかどうかも含め、出土した瓦片や鉄製品が天守に由来するのか、後世の建物に由来するのかを判断するには、材質、製作技法、出土した地層などの詳しい分析が必要です。
約4センチの瓦片だけから、築造年代や使用されていた建物をただちに特定することは難しく、今後の整理・検討の結果を待つ必要があります。
今回の調査では、礎石と根石が江戸時代の状態を保っていること、瓦片と鉄製品が出土したことが確認されました。これは天守台上の建物を考える重要な手掛かりですが、大天守の存在を直接証明するものではありません。天守の存否を判断するには、出土品の分析、追加資料、文献史料を合わせた総合的な検討が必要です。
2026年度も追加調査を実施
福岡市は2026年(令和8年)5月28日、2025年度に行った発掘調査の成果を報道関係者に説明しました。報道によれば、礎石の下に据えられた根石に加え、建物の基礎の一部にあたる束石も確認されました。
福岡市は、大きな建物を建てられる可能性があったことを確認できたものの、それが天守であったのかどうかまでは分からないと説明しています。
翌29日からは、天守台の内側と外側を対象とした追加の発掘調査が始まりました。調査は同年12月末まで行われる予定です。そのため、本記事の結論は現時点でのものであり、新たな調査成果が公表され次第、内容を更新する予定です。

天守再建よりも、史料に基づく武具櫓の復元を
福岡城天守の再建をめぐる動き
2025年には天守台の発掘調査が行われ、天守の実在をめぐる議論が改めて注目されました。一方、地元経済界からは、天守の復元的整備を求める動きもあります。私は、天守の指図や精度の高い絵図など、外観を裏付ける十分な史料が確認されない段階での再建には、慎重であるべきだと考えます。
「福岡城天守の復元的整備を考える懇談会」は、福岡市に対し、資料収集や発掘調査の推進、市の整備計画の見直しなどを提言しています。
懇談会が示した復元CGは、黒を基調とした五重天守として描かれています。下見板張り、突上戸、屋根の意匠などの細部には、現存する福岡城の門、櫓から確認できる特徴が取り入れられています。一方、天守全体の外観を直接示す資料は確認されておらず、建物全体の形態や階層構成には、礎石・石垣、絵図、同時代の他城の事例などを基にした推定が含まれています。
福岡城の築城時期から見れば、五重天守を想定する場合、望楼型が有力な候補になります。しかし、懇談会の復元CGは三重目に大入母屋屋根を置きながら、下層が順に小さくなる層塔型に近い構成にも見えます。
一般的な四重または五重の望楼型天守には、入母屋屋根を持つ二重の櫓を基部とし、その上に二重または三重の望楼部を載せる例が見られます。岡山城、広島城、姫路城、松江城、萩城、米子城との比較は、CGの構成を検討する手がかりになります。

福岡城天守の外観はどこまで推定できるか
福岡城に現存する門や櫓では、切妻破風を用いた意匠が確認できます。こうした特徴と築城時期、同時代の望楼型天守を参考にすれば、一重目と二重目をほぼ同規模とし、二重目に大入母屋を掛け、その上に三重の望楼部を載せた構成も一案として考えられます。また、採光部などに切妻破風を設けた可能性もあります。ただし、これは現存建築と他城の事例を組み合わせた推定であり、福岡城天守そのものの外観を示す史料に基づいた復元案ではありません。


ここまで述べた天守の外観は、現存建築や同時代の他城の事例を参考にした推定の域を出ません。そのため、福岡城の象徴となる建物を復元整備するのであれば、外観資料の乏しい天守だけでなく、古写真や発掘の成果が残る武具櫓を優先する選択肢もあります。武具櫓は本丸南端に位置し、二階建ての多門櫓と両端の三階建て櫓、出入り口の附平櫓から構成された、福岡城最大規模級の建物でした。
残された資料に基づいて木造復元できれば、本丸のかつての威容を、より確かな形で伝えられると考えます。

金沢城では現在、天守を見ることはできませんが、菱櫓・五十間長屋、橋爪門続櫓が明治期の古写真、江戸期の絵図、発掘調査の成果などに基づき、伝統工法で木造復元されています。天守がなくても、史料に基づく長大な櫓群を復元することで、城郭の規模や往時の景観を来訪者に伝えられる好例です。
福岡城でも、資料が比較的豊富に残る武具櫓の復元は、城の歴史的価値と魅力を伝える有力な方法になると考えます。

まとめ|福岡城天守は実在したのか
現時点の資料を総合すると、福岡城では天守の建造工事が行われ、何らかの天守建築が一時期存在した可能性は高いと考えます。
建造、破却をうかがわせる複数の文書があり、「天守は最初から建てられなかった」とする説だけでは説明しにくくなっています。
一方、文書に記された「天守」が大天守を指すのか、天守曲輪内の別の建物を指すのかは、すべての資料で明確とはいえません。絵図や模型も重数や外観が一致せず、2025年の発掘成果も大天守の存在を直接証明するものではありません。現在も2026年度の追加調査が進められており、その成果を待つ必要があります。
したがって、何らかの天守建築が存在した可能性は高まったものの、大天守の完成と正確な外観については、なお断定できないというのが本記事の結論です。
また、現時点では天守の外観を正確に復元できるほどの資料がそろっていないため、天守再建には慎重な検討が必要です。古写真や発掘成果が残る武具櫓の木造復元も、福岡城の歴史的景観を伝える有力な選択肢になると考えます。
主な参考文献
本記事の作成に当たり、以下の公的資料、研究文献、絵図などを参照しました。資料から確認できる事実と、筆者による推定は区別して記述しています。
・福岡市『福岡城天守台調査の経過報告について』(2025年12月)
https://www.city.fukuoka.lg.jp/gikaizimukyoku/giji/shisei/documents/11_20251217KKB-hokoku-9.pdf
・福岡市『福岡城天守台 発掘調査にかかるお知らせ』(2026年5月)https://www.city.fukuoka.lg.jp/shisei/kouhou-hodo/hodo-happyo/2026/documents/260519fukuokajyoutensyudaihakkututyousa.pdf
・福岡城天守の復元的整備を考える懇談会『福岡城天守の復元的整備について―報告と提言—』(2024年12月)
https://www.fukunet.or.jp/wp-content/uploads/2025/01-fukufuku2.pdf
・服部英雄『歴史を読み解くーさまざまな史料と視角』所収「福岡城に天守はあったのか」
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/17117/p144-177.pdfp144-177.pdf
・福岡市『国史跡福岡城跡整備基本計画』
https://www.city.fukuoka.lg.jp/keizai/ds-suishin/shisei/fukuokajoukihonnkeikaku.html
・九州大学附属図書館「檜垣文庫」(『御要害作事箇所附』所蔵)
https://www.lib.kyushu-u.ac.jp/ja/collections/higaki
・国立国会図書館デジタルコレクション『西海筋海陸絵図』
https://dl.ndl.go.jp/pid/1286214
・福岡TNCニュース「福岡城に天守閣はあったのか―初の発掘調査の結果を公表」(2026年5月28日)https://news.tnc.co.jp/news/articles/NID2026052830565

