豊臣秀長ゆかりの大和郡山城を、近鉄郡山駅から歩いて訪ねました。現在天守は残っていませんが、復元された追手門や櫓、堀に囲まれた本丸、転用石が組み込まれた天守台には、城を歩く楽しみが詰まっています。
この記事では、実際に歩いた道順に沿って、門や櫓、極楽橋、天守台の見どころを写真とともに紹介します。さらに、天守台の再建や、二条城を経て淀城へ天守が移されたという説についても、市の公開資料と現地で見た遺構を照らし合わせながら考えます。
大和郡山城の基本情報
| 項 目 | 内 容 |
| 所在地 | 奈良県大和郡山市城内町 |
| 天守 | 現在は残っていません。天守台は展望施設として整備されています |
| 主な見どころ | 天守台の石垣と転用石、逆さ地蔵、復元された追手門や櫓、城を囲む堀 |
| 近鉄でのアクセス | 近鉄橿原線「近鉄郡山駅」から徒歩約7分 |
| JRでのアクセス | JR大和路線「郡山駅」から徒歩約15分 |
| 駐車場 | 天守台展望施設専用の駐車場はありません。城跡周辺の駐車スペースにも限りがあります |
天守台展望施設へは、柳澤神社の境内を通り、階段を登って向かいます。展望施設には利用時間が定められているため、訪問前に”大和郡山市の公式案内” をご確認ください。

訪問日 2025年9月上旬 晴天日
▶豊臣兄弟ゆかりの名城を行く(1) 和歌山城の記事はこちら
大和郡山城を行く
大阪南港に朝8時30分に到着。その後、大阪市内から近鉄を利用して大和郡山へ向かいました。電車の車窓から追手門付近の復元櫓や石垣を眺めながら、近鉄郡山駅で下車しました。
大和郡山城について
郡山城(こおりやまじょう)は、奈良県大和郡山市にあります。古くから当地の戦乱に登場する城郭のようですが、戦国時代になって筒井順慶によって整備された時代を経て、豊臣政権期に秀吉の弟 羽柴秀長の居城となり、その領国であった大和・紀伊・和泉3か国100万石の拠点とされています。江戸時代になると譜代大名の居城として維持され、最後は柳沢氏15万石で明治維新を迎えているようです。

近鉄郡山駅から城跡へ向かい、線路沿いを歩くと、長い池と郡山高校の敷地が見えてきました。高校の南側にある鷺池は、大和郡山市の『史跡郡山城跡保存活用計画』では「中堀」に分類されています。城下町を囲む総構えの外堀より内側に位置する堀で、縄張り図と見比べると、城全体における位置づけがわかります。池沿いには遊歩道が整備されており、水辺の景色を眺めながら城へ向かうことができます。
私は城への道順がわからなくなり、池沿いを進んで、芝生広場のある麒麟郭側へ入ってしまいました。結果として、天守台を周囲から眺めながら歩くことになりました。
いよいよ郡山城内へ入る

ここまで歩いて感じられるのは奈良県の自治体は、公費を投じて文化財の維持・管理・公開・公園化などの施策が先進的なように感じられたことです。自治体の財政力の問題があるとは思いますが大和郡山市の文化財を大切に守る意識の高さが感じられます。


麒麟郭を回りながら、近年整備された天守台の写真を撮ります。本丸は堀に囲まれており天守台に登るためには本丸周りをぐるっと一周することになります。しかし、本丸の比高が周辺の郭より高くやや中距離から天守台の写真を収めたい愛好家には良いコースになりました。なんだかんだと立ち止まっては色んな角度の天守台を撮りながら、やっとこさ追手門にたどり着きます。ここまで歩いて9月上旬の晴天、まだ暑く汗だくです。
大和郡山城の追手の門と櫓を見る


追手門周辺には、復元された門や櫓が並んでいます。大和郡山市の案内によると、追手門は1983年に復元され、その後1987年にかけて追手向櫓・多聞櫓・追手東隅櫓などが復元されました。門と櫓を見渡すと、城の入口を守る構えを感じ取ることができます。柱を見せる真壁造りや下見板張りの外壁にも、古城らしい風格を感じました。石垣だけでなく、こうした復元建築をあわせて見ることで、往時の城の姿を思い描きやすくなります。
いよいよ城内に入ります。
極楽橋を渡る


大手門から、毘沙門曲輪を進み堀で隔てられた本丸に進入します。極楽橋と呼ばれる木橋を渡りますが、本丸は多少の高台になっていて極楽橋も多少の傾斜を感じます。本丸から周囲の曲輪を見渡すと想像以上に堀も深く防御に有利な高台に本丸があることが実感されます。
いよいよ右手に天守台が見えてきました。

天守台に登る

大和郡山城は、豊臣秀長の居城として知られています。ただし、現在見られる天守台を、そのまま秀長時代の姿と考えることはできません。大和郡山市が公開した三浦正幸氏の解説では、秀長時代の天守台は1596年の慶長伏見地震で崩れ、増田長盛の時代に再建されたと考えられています。今も残る石垣を見る際には、城主の交代だけでなく、災害や再建による変化にも目を向けたいところです。
現地の案内板では、天守一階の規模は7間×8間程度と説明されていました。この天守には、大和郡山城から二条城を経て、淀城へ移されたという説があります。ただし、移築された建物を、秀長時代の天守そのものと考えることには注意が必要です。
大和郡山市が公開した三浦正幸氏の解説では、移築された天守は、1596年の慶長伏見地震後に増田長盛が天守台とともに再建した二代目と考えられています。秀長時代の天守の姿は、今も明らかではありません。現地に残る天守台を眺めながら、城主の交代や地震、移築によって変わっていった天守の歴史に思いを巡らせました。



天守台の石垣には、石仏や寺院の礎石など、本来は別の目的で使われていた石を再利用した「転用石」が見られます。なかでも、天守台北面の石垣に逆さに組み込まれた「逆さ地蔵」は、郡山城を代表する見どころの一つです。石垣の形や積み方だけでなく、使われている石にも目を向けると、この城ならではの特徴が見えてきます。
ただし、転用石があることだけで、石垣の築造年代や築城者の信仰観を判断することはできません。現地で見えるものと、資料や調査から分かることを照らし合わせながら見学したいところです。
三浦正幸氏の見解では、現在の天守台は慶長伏見地震後に増田長盛が再建したものと考えられています。ただし、石垣が再建されたからといって、使われている石材まで、すべて新たに集められたとは限りません。私は、崩れた旧天守台から使える石材を回収し、石仏や礎石などの転用石も再び用いた可能性があると考えています。そうであれば、現在の天守台には、再建前の城づくりの痕跡も引き継がれていることになります。これは再使用を直接示す資料に基づく説明ではなく、石材利用についての筆者の推測です。


福知山城を訪れた際にも、石塔などを石垣に用いた転用石を多く見ました。郡山城と見比べると、織田・豊臣政権期の城づくりに共通する石材利用に興味が湧きます。

福知山市の解説では、福知山城の石垣に石塔類が使われていることは、安土城など織田信長に関わる城と共通する特徴だとされています。私は、両城の転用石を見て、信長の時代から続く石垣づくりの技術や石材利用が、その後の城づくりにも受け継がれたのではないかと想像しました。
ただし、転用石を用いた理由や、その際の城主の宗教観までは、石垣だけから読み取れません。郡山城に多くの転用石が残る背景には、築城地で採石できなかったことや、周辺に寺社や石造物が多かったという事情もあります。現地で感じた疑問を大切にしながら、資料で確認できることと自分の考察を分けて考えたいと思います。

まとめ|石垣から城の歴史をたどる大和郡山城
大和郡山城を歩いて印象に残ったのは、復元された追手門や櫓の姿と、堀に囲まれた本丸の高低差でした。周囲の曲輪から天守台を眺め、極楽橋を渡って本丸へ進むと、地形と石垣を生かした城の構えを実感できます。
天守台では、逆さ地蔵をはじめとする転用石にも注目したいところです。石の形や積み方に加え、もともと何に使われていた石なのかを考えると、見学の楽しみが広がります。天守台の再建や天守の移築説を知ることで、残された遺構から、城がたどった歴史を思い描くこともできました。
初めて訪ねる方には、追手門と櫓、極楽橋、本丸、天守台を順に巡る歩き方をおすすめします。豊臣秀長ゆかりの城としての歴史と、石垣をじっくり観察する楽しさ。その両方を味わえる城跡でした。
郡山城をひとしきり見て、次の目的地、伏見城を目指します。
▶伏見城の記事はこちら
参考資料
郡山城~国史跡・続日本100名城・日本さくら名所100選~/大和郡山市
城の沿革、復元された門・櫓、逆さ地蔵、アクセスの参考。

– 三浦正幸「”歴史に翻弄された郡山城天守”
大和郡山市の2026年4月21日定例記者会見資料に収録。PDFの15~16ページ。天守台の再建と、二条城・淀城への天守移築説の参考。
– 大和郡山市「”史跡郡山城跡保存活用計画” 」(2025年3月)
第3章、本文50ページ「⑥転用石材」。転用石の種類や分布、郡山城で多く用いられた背景の参考。
– 大和郡山市「”郡山城天守台展望施設のご案内”
展望施設への行き方、利用時間、駐車場についての参考。
– 福知山市「”明智光秀が築いた城下町について“」
福知山城の転用石と、織田信長に関わる城との共通点についての参考。
– 大和郡山城の現地案内板(2025年9月の訪問時に撮影・確認)。
ウェブ資料の確認日:2026年10月5日。


