築城名人 藤堂高虎の城を行くシリーズ
宇和島城は、築城名人・藤堂高虎によって築かれた防御に工夫を凝らした縄張りと、宇和島伊達家の時代に整えられた開放的な玄関を持つ天守が同居する珍しい城です。
まず結論|宇和島城は「小さくても奥深い現存天守」を見たい人におすすめ
宇和島城は、現存12天守の中では比較的に小規模な城です。
しかし実際に登ってみると、伊達家時代の天守の優美な外観だけでなく、山城らしい防御性や藤堂高虎の築城技術も感じられる奥深さのある城でした。
「大規模な城より、静かに天守を味わいたい」そんな方に特におすすめしたい現存天守です。
本記事では、現地で実際に歩いて感じた見どころや注意点を交えながら、宇和島城の魅力を解説します。
見学前に知っておきたい注意点
・宇和島城は平山城ですが、本丸・天守までは坂道が続きます。このため、夏場はかなり気温が上がり暑くなるため、水分準備をおすすめします。
・また、現存の天守らしく内部階段は急で狭めです。手荷物は少なく、できるだけ動きやすい服装で行動されることをおすすめします。
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・現存12天守一覧|日本に残る天守一覧と特徴を解説
基本情報
宇和島城を訪問する前に基本情報をまとめてみました。
| 所在地 | 愛媛県宇和島市丸之内 |
| 築城時期 | 慶長元年(1596年) |
| 天守 | 現存天守(重要文化財) |
| 入場料 | 大人200円 |
| 見学時間 | 90分程度 |
| 天守営業時間 | 9:00~17:00(11~2月は16:00まで) |
| 駐車場 | 城山下駐車場(市営) |
宇和島城はどんな城か|高虎の縄張りと伊達家の天守が残る城
宇和島城は、慶長年間に築城名人 藤堂高虎によって築かれた城を基礎とし、その後、伊達家の居城として整備された城です。
現在の天守は江戸時代の伊達宗利の年代に建てられたもので、幕藩体制も安定した頃に築かれたもので、現存12天守の一つに数えられています。
一方で、城山全体の縄張りには高虎らしい工夫を凝らした防御性が残されており、登城路やその石垣からは戦国期の城づくりの思想を感じることができます。
愛媛県宇和島市は、アクセス的には関東・関西の大都市圏から比較的離れているせいか観光客もまばらで、過去に訪問した現存天守の中では、混雑を味わうこともなく、ゆっくりと見学することができました。
登城の際は、城山を登るので少し坂道を歩きますが、それほどの辛い勾配はありません。坂を上ると本丸で白い天守が見えてきます。
近づいてみても、それほど大きな天守ではないので威圧感のようなものはあまり感じませんが、破風を多く重ねた華やかさには目を奪われてしまします。
天守は3階建てで、それほど見学時間は取らず、登城の歩きを含めても90分くらいで、元の駐車場まで歩いて帰れます。

登城路|敵を簡単に近づけない複雑な山道構造

現在の宇和島城は、城山周辺の海岸線が埋め立てられ、市街地の中に城山があるように見えます。高虎によって築城された当時は、内堀で区画された城域が北面と西面が海に接しており、全体が不等辺五角形という工夫を凝らした縄張りでした。城山山上に本丸と天守を置く平山城でありながら、海城でもあるという点が縄張りの特異点です。
私は城内へは、登城口直近の城山下駐車場に自家用車を入れて、三の丸側の登城口(城山北登城口)から訪問しました。登城口には桑折長屋門があります。藩政時代宇和島藩の家老、桑折氏の長屋門を移築したものです。本来の城門ではないようですが、門を潜ると城域に入った感が強くなります。



本丸へは井戸曲輪が直近のようですが、結構な傾斜道を登るのは避けて、山を北と西へ大きく迂回して長門丸から登城するコースで天守に向かいます。
訪問して感じたことですが、山上部は広めの平地がありますが、そこに至るまでの山の斜面は急傾斜になっています。このため、守りには最適の立地で、攻城側は急傾斜の登城路を登るのか、迂回してなだらかな、本丸への距離を稼がれる登城路を行くかになります。


城山を、登って行くと自然の岩盤に加えて、要所には石垣が積まれており、山上に容易に近づけさせない登城路の防御性を強く感じることになります。
高石垣が各所に配された実戦的な縄張り
天守のある本丸までは長門丸・藤兵衛丸といった曲輪を通らなければなりませんが、そこにいたるまでに野面積の堅固な高石垣に沿って歩いていきます。


城山を登る登城路では藤堂時代に築かれた石垣を見ることができます。
藤堂高虎は、様々な城を生涯の間に築いていますが、その特色は「合理性」という言葉に集約されるように思います。
この宇和島城の石垣は、一見乱雑に積まれたような野面積の石垣で、見せかけの巨石を配することもありませんが、城全体を要塞化して敵を寄せ付けない高石垣を要所に配置する築城思想は、後に築く他城に共通しているように思えます。
伊達時代の現存天守|戦国の緊張感から解放された開放的構造
宇和島城の天守は、現存12天守の一つです。この天守は1666年(寛文6年)に当時の宇和島藩主伊達氏による2代目天守です。初代の天守は藤堂高虎による慶長年間(1596年頃)のものですが、入母屋造りの出窓を多く持った非常に特異な外観の天守だったようです。藤堂高虎は、この初代天守を建てる際に古材を集め急ぎ再利用した記録があります。このため半世紀でほぼ全体が腐朽し建て替える必要が生じたようです。
そして建て替えられた(1666年)のが今の天守です。幕府には改修と伺いを立てて、実際は新材で立て直しているわけですが、天守台はそのままに、初層の規模も初代と同じ6間四方で三重というのもこのような事情によるものと考えられます。この時代では、緊急に合戦(籠城戦)に備える必要がないので、時間をかけて設計を行い、手間をかけて建築することが可能になっています。宇和島城の天守が平和な雰囲気に見えるのは、このあたりに理由があると思います。
藤堂時代から、半世紀以上の月日が流れ、伊達氏に変わり「戦い重視の城」から「統治重視の城」に役割が変わっていったということでしょう。

初層の規模は同じでも、現在の天守は時代を反映した新式の層塔式で各階の低減が少なく、三重目の規模は初代の4倍(2間四方から4件四方)になっています。また、三重の天守ながらも各階の屋根全てに千鳥破風又は唐破風をバランス良く設けて華やかな外観を見せており、通常の三重櫓とは違う天守ならでは風格を示しています。

江戸時代の伊達氏の天守は、見栄えを重視した白亜の天守を建てました。
この天守に登るには、付櫓台の石段を登りますが、上りやすいように踊り場が設けられた10段程度の石段で簡単に天守玄関口まで上がれます。天守の入り口は付櫓はなく代わりに開放的な玄関が設けられており、登城路に感じた戦国時代の厳しさからは解放された藩政のシンボルとしての天守の役割を感じさせます。

天守台石垣について
宇和島城の天守の石垣(天守台)は、見事な切り石で丁寧に積み上げられていますが、石垣端部から建物が建てられておらず、犬走という人が通れるくらいの余地空間があります。当然、このような構造では、石垣を登ってくる敵に攻撃が出来ず、天守での籠城には不利になります。このため、二代目天守は平和な時代の象徴といわれていましたが、実際の所はこの天守台石垣は幕末期の改修ということが分かってきましたので、二代目天守の建築期とは関係がないようです。(建築時は、初代天守と同じく自然の岩盤上に建てられていたようです。

天守の内部について
天守の内部は、現存天守らしい木造の佇まいを感じることができます。なかでも、江戸期に創られた修理用の天守の雛形は実見の価値があります。

天守の廊下側から見ると、明り取りの窓も大きく作られており、内部は意外に明るくなっています。

天守の内部階段は、現存天守だけに、ある程度の急勾配ではあるものの写真のように途中で踊り場があり、手すりを掴んで登れば、他の現存天守と比較では登りやすい部類の天守でした。


また、戦国時代の名残でしょうか。最上階の窓の上には鉄砲射出後の排煙窓が作られています。泰平の時代の天守といえども、いざ籠城戦という時の備えを忘れているわけではないようです。


帰路は井戸丸経由で
天守を見て登城口直近の城山下駐車場に戻るときは、井戸丸経由のルートで戻ることができます。このルートは本丸の天守まで距離が近いのですが、上り石段の連続になるので、往路の登城ルートはお勧めできませんが、帰りは下山になるので時間短縮で駐車場に戻れます。


このルートで下山すると、藤堂高虎時代の自然石を積み上げたいかにも実用的な石垣を見ることができます。先ほど見た、伊達氏の天守の切り石で隙間なく積み上げた石垣と比べると、まるで様相が違います。ここから伝わる戦国古城の雰囲気と、玄関を備えてデザイン的にバランスの良い天守との雰囲気の違いは、この城の奥深さを現代に伝えています。
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