大阪城は豊臣秀吉の城ではない?消えた豊臣大坂城を追う旅【豊臣石垣館・竹生島唐門】・・・豊臣兄弟ゆかりの城を行く

復興・模擬天守

大阪城を訪れる多くの人は、目の前にそびえる天守を見て「これが豊臣秀吉の城だ」と思うかもしれません。

しかし、実は、現在の大阪城は徳川時代に築き直された城です。
では、豊臣秀吉の大坂城はどこへ消えたのでしょうか。

今回は大阪城内に新しく誕生した豊臣石垣館と、滋賀県竹生島に残る豊臣時代の遺構を訪ねながら、消えた豊臣大坂城の痕跡を追いました。

まず結論|豊臣大坂城を感じるならこの3か所

・豊臣石垣館
・山里丸
・竹生島(唐門)
豊臣石垣館は、豊臣氏時代の石垣を見ることができる大阪城唯一の場所です。山里丸は徳川氏によって盛土されて姿を消した大阪城内で豊臣時代からあった極楽橋や豊臣秀頼・淀殿自刃の地があるなど大坂城内で豊臣氏の痕跡をわずかに感じることができる場所です。竹生島は滋賀県の琵琶湖に浮かぶ景勝の島で、ここにかつて豊臣氏の極楽橋の屋根に架けられた唐門を(国宝)見ることができます。この唐門が唯一の残された豊臣の大坂城建築遺構といわれています。今回は、豊臣兄弟ゆかりの大坂城の遺構を求めての旅の紹介をします。

大阪城極楽橋から、本丸方面の山里曲輪を臨む

大阪城の基本情報

「大阪城」と「大坂城」の表記について
「おおさかじょう」の表記は、近代から大阪と表記するように改まったため、現在の城を指す場合は「大阪城」と表記します。後述の歴史解説に用いる場合は「大坂城」表記を使います。

現在の大坂城は徳川時代に再建された城

豊臣秀吉が築いた大坂城

大坂城は、かつては織田信長が争った石山本願寺が存在した要地で、豊臣秀吉が拠点として築城してから、秀頼の代での大坂の陣、豊臣氏滅亡後の徳川幕府による再建を経て、現在みられる昭和初期の天守復興などの歴史を持っています。
大坂の発展の礎を築いた人物として、天下人・豊臣秀吉の影響が強くあることから大坂城=秀吉=天下無双の城というイメージが私たちの中に残されています。

大坂夏の陣で焼失

豊臣秀吉が築き上げた財力と人力を尽くして築いた大坂城は、秀吉の死後、関ケ原の合戦を経て天下を手中にした徳川家康(江戸幕府)との対立を生み、1614年(慶長19年)に大坂冬の陣が勃発しました。大坂城に籠城した豊臣方を幕府側は攻略できず、一旦講和を結びましたが、冬の陣から4か月後の1615年(慶長20年)には、和議は破られ大坂夏の陣が始まります。防御の要である広大な堀や総構が破壊された大坂城は落城して、豊臣氏は滅亡しました。

落城後の大坂城は、初め家康の外孫・松平忠明に与えられましたが、1619年には、大坂は江戸幕府の直轄地となり、翌1620年(元和6年)から2代将軍徳川秀忠によって、豊臣色を払拭する大坂城再築工事が開始されました。大坂城再築工事は主に西国大名を中心に1620年(元和6年)からの第一期工事、1624年(元和10年)からの第二期工事、1628年(寛永5年)からの第三期工事と実に3期・足かけ9年にわたる普請によって1629年(寛永6年)に完成しています。この大工事で、豊臣時代の大坂城は数メートルの盛土が行われたために本丸部分では地上にその姿を見ることができなくなってしまいました。

徳川氏によって築かれた現在の大坂城。西国大名を中心に天下普請として築かれており、訪問すると他の城を凌駕する規模感に圧倒されます。

地下に眠る豊臣大坂城を発見|大阪城豊臣石垣館体験記

豊臣石垣館とは

「大阪城 豊臣石垣館」は、令和7年にオープンした施設で、昭和59年(1984)の発掘調査で姿をあらわした豊臣期石垣を、地中に降りてみることができます。大阪城内で見ることが可能な唯一の豊臣氏遺構で、徳川再築の石垣とは異なる魅力と迫力、そして驚くべき大量の土砂による盛土の質感を体感することができます。ここで見られる石垣は、本丸内の詰ノ丸というエリアの高石垣で、ここは秀吉・おね夫妻や淀殿・秀頼母子が生活した プライベート空間で、城の最深部・本丸のなかでも最重要部分です。

豊臣石垣館の外観。天守の入館券と共通券なので午後遅い時間帯の訪問の際は、時間配分に気を付けましょう。

・素朴な自然石の多い高石垣に、古式を感じる。
写真のように横長い大石をメインに、表面以外はほとんど加工せず並べて積み上げ、隙間に小石を詰めて調整した石垣を積み上げています。「野面積み」という技法ですが、素朴で江戸時代の城ではあまり見られない原初的な石の積み方を感じることができます。

館内の写真撮影は石垣のみ許可されました。施設内の展示品や映像関係は撮影禁止です。

・石垣造りで必須の裏込め石のありさまが、大坂城でも確認できます。
石垣館の内部は、まず地下1階で間近に豊臣石垣を見るのですが、次に階段を登って1階展示ホールからも上から見下ろす位置で見学ができます。この位置からは石垣の裏側に詰められていた小さな自然石(裏込め石)を見て石垣づくりの断面を知ることができます。裏込め石を詰めるのは土と表面の石の間に小石を詰めて雨水の水はけを良くする工夫です。

積み上げられた石垣の背後に小石を入れて、水圧からの崩落を防ぐ工夫が上から確認することができます。

・すでに隅部は算木積の技法を用いて積まれていることが確認できます。
より高く頑丈な石垣を築くために、石垣の隅部に直方体の石を交互に積み上げる手法を「算木積み」といいます。豊臣大坂城では、石の一つ一つがきれいに加工されていませんが、すでに算木積みの工法が採用されているのが確認できます。
徳川幕府が再建した大坂城の算木積み石垣と比較して帰ることで年代の違いと築城の進歩を感じることができます。

算木積に用いられた隅部の石は大きさも形も均一ではありませんが、長辺と短辺が交互になっていることが確認できます。
現在の徳川時代に築かれた大坂城本丸の高石垣。大量に盛土されて整地された本丸石垣の隅部はブロック状の直方体切石が交互に規則正しく算木積で積み上げられています。

徳川が埋めた豊臣石垣を目の前で見る

この豊臣石垣館では、かつて地表にあった豊臣時代の石垣を地下で観るのですが、階段を地中深く降りるにつれて、盛土が大がかりな土木工事であったことが体感されます。豊臣石垣に被された圧倒的な土砂から、徳川家がいかに豊臣家の存在を歴史に埋没させたかったのか感じさせられます。大坂城は大阪市のど真ん中で、平地にあるイメージですが、実際二の丸から本丸天守の位置まで歩くと、結構な坂道を登ることになります。堀に面した本丸石垣は高さが30メートル位あるそうですが、元来の本丸台地の標高に加えて盛土分の高さが加えられたことから、日本一の高石垣になっているのでしょう。
大阪城を訪れると、天下普請の光を浴びた巨大な石垣に圧倒されますが、この施設に入館して、暗がりの中でスポットライトを浴びた「太閤さんの城」の石垣と初めて対面させられると、歴史の真実を目の当たりにされた気分になります。

周囲は、盛土され一部が発掘された、この石垣は暗がりの中で照明を浴びて見ることになります。

大阪城で今でもみられる豊臣時代の痕跡

現在の大阪城は徳川時代に築き直された城ですが、城内を歩いてみると豊臣時代を思わせる場所がいくつか残されています。

地下の豊臣石垣館で秀吉の城の存在を知った後に城内を巡ると、見慣れた景色も違って見えます。

ここでは、私が実際に歩いて見つけた「豊臣大坂城を感じられる場所」を紹介します。

山里丸から見る豊臣時代の地形

大坂城本丸の北側に位置する山里丸は、豊臣時代の面影を想像しやすい場所の一つです。

現在の大阪城は徳川幕府によって大規模に盛土されて再建されましたが、山里丸周辺には比較的古い地形が残されているといわれています。

大坂城本丸の天守のある周辺は、地盤高が均等な広場になるよう大量に盛土されていますが、極楽橋で二の丸と接している山里丸の圏内を歩くと、高低差のある地形や入り組んだ曲輪の配置が見られ、徳川期の築城と異なる雰囲気を感じます。

私が訪れた時も、本丸本段の広大な空間と違って、どこか戦国の城の空気が残っているように思えました。

二の丸から極楽橋を渡り、本丸(山里丸)へ入ります。本丸内でも山里丸エリアは二の丸と地盤高がそんなに変わらずに橋が架けられていることが分かります。

秀頼と淀殿が最期を迎えた場所

山里丸には、豊臣家最後の当主である豊臣秀頼と、その母・淀殿ゆかりの地として伝わる場所があります。

極楽橋を渡り、本丸本段の天守方面に行く前に、山里丸で豊臣秀頼・淀殿自刃の地を案内する石碑を見つけることができます。

1615年(慶長20年)の大坂夏の陣で大坂城は落城し、秀頼と淀殿は自害しました。豊臣家はここで滅亡し、戦国時代も大きな区切りを迎えることになります。

現在は静かな樹間に囲まれた広場となっていますが、この場所は豊臣政権終焉の舞台でもあります。

目前には国際色豊かな多くの観光客で賑わう大阪城天守があります。しかし、その華やかな景色の裏には、豊臣家滅亡という歴史が隠されています。

豊臣兄弟ゆかりの城シリーズを追ってきた私にとっても、この場所は特に印象深い場所でした。

豊臣大坂城を想像できるポイント

現在の大阪城の姿は徳川氏によるもので、天守も徳川期の天守台の上に復興された昭和のコンクリート建造物です。しかし、なぜ人々は大坂城は豊臣の城というイメージを持つのでしょうか。それは、豊臣時代の黄金と極彩色の華麗な建築群が当時の民衆を驚嘆せしめ、その後の滅亡という栄枯盛衰の悲劇が長く記憶として受け継がれてきたからだと思います。

大阪城天守閣は豊臣時代の天守を「大坂夏の陣図屏風」をもとに外観を構成しており、内部は博物館として充実した展示物を見学することができます。この展示は豊臣秀吉の生涯や大坂の陣など豊臣氏中心です。豊臣石垣館は天守閣入場券とセット販売になっているので、天守にも登閣して現代の難波の街を俯瞰できます。

周囲に見えている大阪城は徳川の城、天守は昭和の建造物です。しかし、足元には豊臣の城が眠っていることを想像して、唯一の豊臣建造物、極楽橋唐門を求めて琵琶湖の竹生島への旅に向かいました。

外人観光客の多い大阪城天守閣。入館するなら、チケット販売や天守入り口が、いつも並んでいるのでインターネットで入館券を購入するのをおすすめします。エレベーターで昇れるのも昭和復興天守の有難い所です。

唯一現存する豊臣大坂城の遺構。竹生島唐門を訪ねる

竹生島とはどんな場所か

豊臣大坂城の痕跡を探していると、その旅は意外にも大阪を飛び出して琵琶湖へ向かうことになりました。

竹生島(ちくぶじま)は、琵琶湖の北部に浮かぶ周囲約2㎞の小島で、古くから信仰の島として知られています。

現在は長浜港や今津港などから観光船で渡ることができ、島内には宝厳寺や都久夫須麻神社が建っています。

私も長浜港から船に乗り竹生島へ向かいましたが、湖上から近づく島の姿はまるで海に浮かぶ神秘の要塞のように見えました。

交通アクセスを考えると利用しやすいのは、JR長浜駅下車です。長浜城のある豊公園側へ歩き、豊公園前を横断する大通りを左に(南側)5分~10分程度歩くと、竹生島クルーズ船乗り場に着きます。
長浜城天守を背に数分歩くと琵琶湖汽船の観光船乗り場につきます。私は歩きでしたが、自家用車はすでに乗り場の駐車場が満車になっていました。車を利用の方は時間に余裕を持って行動されることをお薦めします。
島について、降りたところを撮影。意外と船便が少ないせいか乗船者が多いのは驚きました。
桟橋から島の入り口方向を撮影。人だかりのあるあたりが売店で、そこを進むとすぐに入島料の徴収となります。写真最左の平屋建て家屋の前のフェンスに船の時刻表があります。船便が少ないので無駄な待時間が無いよう戻りの船便チェックは必須です。

国宝・唐門の由来

竹生島で最も注目したい建物が、宝厳寺の唐門です。
極彩色の装飾が美しいこの門は国宝に指定されています。

この唐門こそが豊臣期の大阪城唯一の遺構で、極楽橋の門の遺構といわれるものです。

現在の唐門は、豊臣秀頼による豊国神社再建の際に移築されたと伝えられていますが、その起源については、豊臣秀吉が築いた大坂城の極楽橋にあった門を移したという説が広く知られています。
もし、伝承が正しければ、豊臣氏大坂城から現代まで残った唯一の建築遺構となります。

大坂城公園で見た巨大な石垣とは異なる、安土桃山文化の意匠を今も間近に感じることができます。

唐門の内部写真。天井部分も美しい内装が施されています。
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豊臣大坂城遺構と伝わる理由

この唐門が本当に大阪城の極楽橋から移されたものなのかについては諸説あります。
しかし、秀頼による慶長年間の竹生島再建事業との関係や、古くから伝わる移築伝承によって、現在も信憑性の高い「豊臣大坂城遺構」として語られています。

私が興味深く感じたのは、徳川幕府によって徹底的に埋められた豊臣大坂城の建築が、遠く離れた琵琶湖の島で守り伝えられていることです。
大阪城公園では地下に眠る石垣としてしか見ることができなかった豊臣の城が、竹生島では実際の建築物として目の前に現れています。

その意味で、この唐門は単なる寺社建築ではなく、豊臣大坂城の記憶を現在に伝える貴重な存在といえるでしょう。

竹生島の唐門は大坂城極楽橋の一部分の移築ですが、下に他の城の水堀に架かる橋(大分城)と唐門(二条城)の写真を掲載します。豊臣氏大坂城の極楽橋唐門が極彩色のいかに美しいものであったかご理解いただけると思います。

近年復元された大分(府内)城の廊下橋です。最近の城郭復元の傾向が模擬天守などの史的価値の無いものから、発掘調査や文献・古写真・絵画資料で復元されている門や橋など中心になっているのは城郭ファンにはありがたいことです。
こちらの写真は、二条城の唐門です。奥に見えるのは二の丸御殿です。唐破風は黄金で飾られ、間近で見ると美しい門で感動しましたが、赤・青・緑の色彩で飾り立てられた竹生島の大坂城唐門と比較してみると、豊臣氏の大坂城がいかにカラフルな城郭だったのか解ってきます。

実際に訪問して感じたこと

大阪城の極楽橋を渡り、かつてはこの橋は豪華絢爛な廊下橋であって、その遺構が琵琶湖の小島に行けば見ることができると思い、急遽滋賀県まで旅先を延長しました。長浜港発か、今津港発か悩みましたが電車の時刻表と観光船の時刻表を調べて長浜港が最善と考えJRの新快速に乗り込みました。船便は少なく、必ず発着時間を事前に計画していかないと時間を無駄にしますので気を付けましょう。(島から帰りの便も行先と時刻表は要チェックです。)私は往路は長浜港から、復路は今津港行きに乗りました。今津港行きは、拍子抜けするほど乗船者が少なく港の風景も風情がありました。(こちらのデメリットはJR近江今津駅の列車本数が少ないことです。JR時刻表は要チェックでしょう。)

長浜港の乗船を待つ人たち。平日でこの行列です。帰りの今津港行きはパラパラでした。

長浜港は平日・月曜日にも関わらずご覧のような行列状態でした。長浜港の駐車場は満車の看板を目にしました。他所の駐車場を探して入庫したり、船チケットを並んで購入すると時間の余裕が無くなるので自家用車で行動の方は早めの移動をおすすめします。私はJR長浜駅からの徒歩でしたが、人が多いので少々焦りました。

右に伊吹山を眺めながら、船は30分程、竹生島へ進みます。ほどなくして、島に近づくと港の上に神社・寺院の建築群が見えてきて、いよいよ上陸へ気持ちが高まってきます。

竹生島に近づくと神社や寺の屋根が見えてきます。期待に胸が膨らみます。

いよいよ上陸です。数件の売店の前を通り過ぎると入島料(おとな(中学生以上)600円、小学生300円)の徴収があります。渡船代とは別ですのであらかじめ旅費として出費を覚悟しておきましょう。
料金所を通過するとすぐに石段を登ることになります。
この石段は手摺がないので結構堪えました。なお、境内の他の石段は手摺がありましたので、最初(帰りは最後)のこの石段だけが要注意です。

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石段を上がりきると、右手に今回の旅の目的である唐門が見えてきます。

唐門の前は敷地が狭く多くの方が記念写真を撮ることや、門の中に観音様の仏像があるので願掛けの人も絶えず、人物なし建物のみの撮影は中々困難でした。
重要文化財・渡廊(舟廊下)です。唐門をくぐって、奥まで行くと、朝鮮の役で使われた渡航船の古材を用いて造られた渡り廊下で、都久夫須麻神社側へ行くことができます。豊臣時代を感じる古い文化財です。
上写真の重要文化財・渡廊(舟廊下)の外部写真です。向かって奥が唐門のある観音堂側ですが、建物を支える下部が懸造りになっており、趣が深い建物です。

この島は古くから信仰の場として、琵琶湖に浮かぶ島として知られていました。訪問してみて、小さな孤島という地理的環境が政権の影響を及び難いものにしたのだろうと感じます。このため、唯一の大坂城の遺構の唐門や秀吉の御座船「日本丸」の船櫓(ふなやぐら)の材を用いたという伝承の渡廊(舟廊下)を実体験することができました。

帰りの今津港行きの船に乗り、島を振り返ると岩の岸壁が周囲を覆っています。私は他者の進入を許さないこの岸壁に豊臣の唯一の遺産が今も護られているように思えたのです。

今津港行きの船から竹生島を見ると、湖岸に岩壁が続きます。