島原城と原城跡を歩く|四万石に不釣り合いな名城と島原の乱・最後の籠城

島原城天守 復興・模擬天守

島原半島には、島原の乱を挟んで対照的な二つの城があります。
四万石の松倉氏には不釣り合いなほど巨大だった島原城。そして、廃城後も堅固な城郭構造を残し、一揆勢の最後の拠点となった原城です。

この二つの城を続けて歩くと、城が領主の権威の象徴にも、追い詰められた人々の砦にもなった歴史が見えてきました。

国指定史跡・島原城と原城跡の基本情報と移動方法

有明海のフェリーから望む雲仙岳
熊本港から有明海を渡航して島原港へ向かうとフェリーから噴火跡も生々しい雲仙岳の姿が近づいてきます。

島原城

所在地長崎県島原市城内1丁目1183−1
開館時間9:00~17:30 (入館は17:00まで)
入館料大人:700円 / 小・中・高校生:350円
駐車場約90台収容  料金 … 一般車両:500円
アクセス【公共交通】JR諫早駅から島原鉄道に乗り換え 「島原駅」下車 徒歩10分
【車・フェリー】熊本港から島原港までカーフェリーで約30分~60分(運航会社により異なります)島原港から島原城までは車で約10分。
見学所要時間60分
文化財指定国指定史跡

原城

所在地南島原市南有馬町乙
開館時間見学自由
二の丸総合案内所 9:30~16:30
入城料見学無料
駐車場国道251線沿いと原城温泉真砂付近に原城跡駐車場あり
アクセス【公共交通】島原駅前から島鉄バス「加津佐海水浴場前」行きで約1時間。「原城前」下車、徒歩13分。
【車・フェリー】島原港から車で約40分。天草方面からは鬼池港—口之津港間の島鉄フェリー(約30分)が便利で、口之津港から車で約15分。駐車場から本丸跡までは約900m、徒歩約15分。
見学所要時間所要時間:約80分(※駐車場⇔本丸 徒歩移動時間30分を含む)
文化財指定国指定史跡

※ 島原半島へは、諫早方面からの陸路のほか、熊本港—島原港、長洲港—多比良港、天草・鬼池港—口之津港を結ぶカーフェリーも利用できます。北部九州から車で訪れる場合は、長洲港から有明フェリーを利用する経路も便利です。長洲港—多比良港間の所要時間は約45分で、多比良港から島原城までは車で約25分です。フェリーの時刻・運賃・運航状況は変更される場合があるため、出発前に各運航会社の公式サイトをご確認ください。

四万石には大きすぎた島原城

築城の背景

1616年(元和2年)、松倉重政は肥前日野江に入封しました。その後、1618年(元和4年)から島原城の築城に着手し、1624年(寛永元年)頃に主要部分を完成させたと考えられています。

一国一城令によって新しい城の築城が原則として制限されていた時代に、島原城は新規築城を認められた数少ない城郭でした。当時の島原半島はキリシタンが多く暮らす地域であり、有明海を挟んで九州の有力大名とも向き合う位置にありました。四万石の松倉氏には不釣り合いなほどの大規模な城が認められた背景には、幕府が島原を政治・軍事上の重要地域と見ていたことがあったと考えられます。

縄張りの規模

城郭は、本丸・二の丸・三の丸などが一直線に並ぶ連郭式と呼ばれる縄張りで細長く、その周囲に家臣の屋敷を取り込んでいた平城でした。
島原城は、東西約350m、南北約1200mの規模です。外郭には30基を超える櫓が並び、本丸には五層の天守と三基の三重櫓が建てられていました。島原市は、藩庁として使われた長崎県内の城では、敷地・櫓や門、石垣などの規模が最大だったと説明しています。

これほどの城郭は、築城当時の松倉氏の知行四万石という規模から見れば、明らかに不釣り合いなものでした。壮大な島原城は、領主の威信を示す一方、その建設費用と労働の負担を領民に背負わせる城でもありました。

幾重にも折れ曲がる屏風折の高石垣
本丸に復元された3重櫓の一つ西3重櫓

築城負担は島原の乱の一因となったのか

城の規模は石高だけで決まるものではなく、その土地の軍事的重要性や大名の格式などにも左右されます。しかし、知行四万石の松倉氏が、五層の天守と三基の三重櫓、さらに外郭に三十基を超える櫓を備えた城を築いたことは、やはり異例だったといえるでしょう。

広大な堀を掘り、高石垣を築き、多数の櫓や城門を建設するには、多額の費用と大勢の労働力が必要でした。築城そのものは初代松倉重政の時代に完成しましたが、その費用や労役は領民に重くのしかかったと伝えられています。さらに二代勝家の時代には、過酷な年貢徴収、キリシタン弾圧、飢饉などが重なりました。

島原築城の負担だけが島原・天草一揆の原因だったわけではありません。しかし現地で深い堀と広大な石垣を目の前にすると、この城を築くため領民が負った負担の大きさを想像せずにはいられませんでした。

現在の五重天守は旧天守をどこまで伝えているのか

現在の島原城天守は、1964年(昭和39年)に鉄筋コンクリート造で建てられた復興天守です。『長崎県指定史跡島原城跡総合調査報告書』によると、建設に先立って旧天守台石垣は解体撤去され、本来の位置より東側に、規模の異なる新しい天守台が造られました。したがって、現在の天守と天守台は、創建時の遺構をそのまま利用したものではありません。

創建天守の古写真や正確な立面図は確認されていませんが、複数の絵図や『普請方記録』などから、その規模や構造を推定することはできます。現在の天守は厳密な復元建築ではありませんが、史料に伝わる往時の天守を参考にした復興天守と位置付けられます。

現在復興された島原城天守と旧天守の外観を比較してみましょう。

昭和復興天守その他絵図資料
屋根の重数五重四重『嶋原城廻之絵図』
四重『肥前国高来郡嶋原城図』 (佐賀県立図書館)1630年以降
五重『肥前嶋原之城』(臼杵市教育委員会所蔵)1668年
五重(森岳城図 八幡神社(島原)1792-1819年
五重『天保年間忠侯御代城市図』(肥前島原松平文庫所蔵
五重『島原城之図』(本光寺所蔵)1672年
外壁一重目のみ海鼠壁あり、二重より上は塗籠(白壁)のみ塗籠(白壁)『肥前国高来郡嶋原城図』 
塗籠(白壁)『肥前嶋原之城』(臼杵市教育委員会所蔵)1668年
下見板張りか『島原城之図』(本光寺所蔵)1672年
下見板張り『嶋原城廻之絵図』
下見板張り森岳城図 八幡神社(島原)1792-1819年
塗籠(白壁)『天保年間忠侯御代城市図』(肥前島原松平文庫所蔵)景観年代は1830-1843年
廻縁・高欄廻縁を板囲いか?『嶋原城廻之絵図』
描写なし『肥前国高来郡嶋原城図』 (佐賀県立図書館)1630年以降
描写なし『肥前嶋原之城』(臼杵市教育委員会所蔵)1668年
描写なし『島原城之図』(本光寺所蔵)1672年

描写なし『天保年間忠侯御代城市図』(肥前島原松平文庫所蔵
大きさ12間四方(高さ33.6m)12間四方(1辺23.6m)『深溝世紀』巻18によると、高さは天守台高3間を含む17間1尺5寸約31m)
十二間半四方『嶋原之城図』(国立国会図書館所蔵)
10間4尺四方『大村・島原・平戸・五島旧城郭調帳』明治8年(1875)
10間×10間『近世城郭の作事 天守』三浦正幸氏

※ 出典については、『近世城郭の作事 天守』三浦正幸氏、『嶋原城廻之絵図』(歴史群像シリーズ【よみがえる日本の城21】以外は「長崎県指定史跡島原城跡総合調査報告書 資料編 絵図史料」を参照しました。

 まず、気になるのは屋根の重数です。五重か四重かですが、五重で良いと私は考えています。
島原城については、『普請方記録』に詳しく記されており、これから分かるのは、総高が17間1尺5寸(約31m)、階は五段目まであり各層とも2間づつ縮小する層塔型天守であったこと、最上段の外に4尺の縁側(すなわち廻縁高欄あり)があったことが記録されています。

築城に規制がある時代背景で、島原城は松倉氏の大名の格式から言って、五重天守は幕府から許可されないと考えられます。このため、最下層の屋根を腰屋根として考え、名目四重との解釈で天守復元案が紹介されています。

この案については、多少の疑問もあります。仮に初重の屋根が腰屋根(庇)であるならば初重と二重の平面規模は同一であることになり、復元図もそのようになっています。しかし、『普請方記録』では、各層とも2間ずつ縮小している記述になっており、これは現在の復興天守が建設の際に採用しています。

外壁の仕様は、総白壁(塗籠)か黒い下見板張りかという点ですが、築城当初は白壁で、後に下見板張りに改修された可能性も考えられます。ただし、後世の絵図にも白壁で書かれたものがあるため、絵図だけから改修時期を確定することはできません。また、『嶋原城廻之絵図』では、最上階が板戸で取り囲まれているように描かれており、これは廻り縁・高欄の腐食を防ぐための措置と考えられます。おそらくは、天守の板張り改修時に、最上階も含めて耐久性を高めるリフォーム工事が行われたのではないかと考察します。(他城例:福山城)

結論から言うと、現在の復興天守は、規模や層塔型の輪郭については創建天守をよく伝えている可能性があります。一方、重数、外壁、廻縁・高欄などには、なお検討の余地が残されています。

創建された天守は、明治時代の初期まで現存していたようなので、今後古写真が発見されることに期待したいと思います。復興天守とは印象の違う、高欄の無い板張りの地味な天守が写っているかもしれません。

海鼠壁を備えた島原城復興天守
復興された天守の外観です。一重目の海鼠壁と出格子窓は、デザインが単調にならないように復興の際に加えられたものと考えられます。

現在より一回り大きかった旧天守台を考察する

 島原城天守台の規模について

現在の復興天守を載せている天守台は、長崎県指定史跡島原城跡総合調査報告書によると、「昭
和38(1963)年の模擬天守建設の際には現存していた天守台石垣を解体撤去し、本来の位置よりも東側に大きさの異なる天守台を新規に造って上屋を建てている。したがって周囲の駐車場舗装下の地中には元の天守台根石部が一部残存している可能性があり、将来的な調査と保全策の検討が必要である」と説明されています。(報告書25頁)
また、令和4年度の「長崎県指定史跡島原城跡本丸天守台地中レーダ探査業務委託」では旧天守台が調査され内容を要約すると
① 明治9年に天守が取り壊されたが天守台は残され、昭和33(1958)年頃の写真には旧天守台が写されており、昭和38(1963)年3月の起工式までに取り壊されていること。
② 旧天守台の推定寸法は35.7m(約18間)四方とみられ、現在の模擬天守台に対して、西側に約4m、南側に約9m広がっていたと推定されたこと。
が説明されています。

記録や調査から、これらの数値を比較すると、高さが3m程度の18間四方の大きな天守台の上に、10~12間四方の天守が建てられていたことになります。天守台の上には空間が発生するので、隅に寄せたか中央に建てていたかは、はっきりしません。同時代に隅に寄せたケースでは会津若松城があります。

昭和の復興時に新設された島原城天守台
この島原城天守を支える天守台石垣は昭和天守復興の際に新たに造られたものです。この周囲に旧天守台がありましたが取り壊されています。

 なぜこのような巨大な天守台が築かれたのか

 一般的に天守を築く際は、天守台の直上に1階の建物を載せます。なぜ島原城では、このような広すぎる天守台を築いたのでしょう。

そのほかに姿が推測できる天守台の可能性として
・天守を天守台の一部に寄せていた。
・周囲に付属建物や入り口施設があった
・天守台上にもう一段の石垣があった
・史料間で測定位置や年代が異なっている
ことなどが考えられます。

私の考察では、次の通りです。島原城の天守は独立式の天守で天守本体を防御する小天守や付櫓を持たない様式です。このため、大きすぎる天守台に載せられた天守は、天守台の四隅のいずれかに寄せて建てるか、天守台の真ん中にもう一段の石垣を築いて周囲に犬走のような空間を設けていたかのいずれかということになります。
このような建物と石垣に余白の残る天守の築き方を行ったのは、天守本体に入ろうとする敵を、この空間で撃退しようとしたかもしれないと考えています。

現在の島原城

領主の石高に対して過大な規模の城郭であった島原城は、かつての領民を苦しめた城であったといわれています。現在は本丸に天守・櫓・長塀が復興されており、天守を資料館にして、各階に「キリシタン史料」「郷土史料」「民俗史料」などの歴史と資料を展示しています。

かつての領民からの怨嗟の的であった天守も、いまはその威容が観光資源となり、市民の力で復興された天守が島原市の観光の象徴となっているのです。

島原城天守全景。天守下は駐車場になっており、車を写さないで天守を撮る撮影ポイントです。

原城跡へ|廃城はなぜ最後の籠城地になったのか

寛永14年(1637)に勃発した島原・天草一揆で、一揆勢は島原城の大手門などを攻撃しました。しかし、堅固な島原城を落とすことはできず、城下に火を放って退却します。

その後、一揆勢は半島南部の原城へ集結しました。原城は一国一城令によって廃城となっていましたが、広大な城域と堅固な地形、さらに石垣などの城郭構造を残しており、籠城地として利用できる状態にありました。

ここには島原半島南部や天草地方の領民約3万7千人が立て籠もり、およそ3か月にわたって幕府軍と戦うことになります。

私は、多くの観光客で賑わう島原城から南島原市へ車を走らせ、夕刻の迫る原城跡へ向かいました。

原城入り口にある案内表示。これを目当てに本丸へ向かいます。
原城跡は無料の駐車場から本丸までしばらく歩きます。城内の各所にハウス野菜などの畑が広がっています。

国道251号沿いの無料駐車場に車を置き、約900m先の本丸に向かいました。道の両側にはハウス野菜などの畑が広がり、ここが城跡であることを知らなければ、広大な曲輪の中を歩いているとは気づきにくい風景です。

図:原城跡縄張図(引用)

「原城跡縄張図|長崎県教育委員会調査報告書」
図:原城縄張図 出典:長崎県教育委員会編『長崎県中近世城館跡分布調査報告書 Ⅱ』(長崎県文化財調査報告書第207集、2011年)119頁より引用 公開:全国文化財総覧

上の縄張り図を見ると、本丸から二の丸、三の丸までが南北に長く連なり、原城が単なる本丸だけの城ではなかったことが分かります。

想像以上に広大だった城域

二の丸を通って本丸まで歩くと、原城が地形を生かして築かれた、想像以上に広大な城だったことが分かります。

城域は南北約1.3km、東西約0.5km、面積約42万平方メートルに及びます。標高約30mの台地上にある本丸だけでも約2万平方メートルあり、二の丸、三の丸、天草丸、鳩山出丸などが広い範囲に配置されていました。

原城は、およそ北・東・南の三方を海に囲まれ、西側にも「塩濱」と呼ばれる湿地帯が広がる天然の要害でした。各曲輪は、海岸から入り込む谷や大規模な空堀によって仕切られています。これほどの城域であれば、約3万7千人の人々が立て籠もるのも理解できます。

私は以前、幕府軍が鎮圧に苦戦した最大の理由は、一揆勢の信仰に支えられた結束の強さにあると考えていました。しかし、実際に歩いてみると、原城自体が極めて攻めにくい要害であり、その城郭構造も籠城戦が長期化した大きな要因だったことを実感しました。

原城二の丸から本丸台地を望む
原城二の丸から本丸の台地を望みます。本丸の背後には海があり、写真手前の二の丸と本丸の間には谷が入り込んで守りに強い城であったことが分かります。

廃城の経緯と一揆勢の立てこもりについて

原城は、1496年(明応5年)有馬貴純により、有明海に張り出した丘陵に築かれました。 16世紀末期の文禄・慶長の役で朝鮮半島の倭城や肥前名護屋城の知識を得た有馬晴信により改修工事によって、石垣や瓦葺の建物を備えた近世の城郭として整備され、本丸、二の丸、三の丸、天草丸、出丸などが築かれています。
江戸時代初期の一国一城令により、廃城とされたものの実際には石垣をはじめ城としての機能は残存していたようです。
このため、島原城を落とせなかった一揆勢の立て籠り場所としては、この原城が最適だったのでしょう。

原城跡本丸の外桝形虎口を示す現地案内図
案内図をみると本丸の出入り口(虎口)は大掛かりな桝形が構えられており、戦闘力の高い縄張りを有していたことが分かります。
原城跡本丸の外桝形虎口址
本丸の桝形虎口の後から本丸を見ます。多くの人員を収容できる広さを有しています。
島原・天草一揆後に破却された原城本丸石垣
かつては石垣で固められた本丸も、戦いの後は堀は埋め戻され、石垣は崩されてしまいました。

発掘で姿を現した櫓台石垣と三層櫓

原城本丸の西側には、塁線から外へ張出すように築かれた大規模な櫓台石垣があります。

発掘調査によって確認されたのは、一揆終結後に破壊され、土砂で埋められていた櫓台の石垣です。一方、この櫓台上に建っていた建物については、イエズス会宣教師の報告書や旧有馬氏家臣の記録などから、その姿が推定されています。

南島原市教育委員会は、本丸西側の張り出し部分に「天守に相当する三層櫓」が建っていたとの記録があると説明しています。別の市の解説では、この三層櫓には弾薬や食糧が保管されていたともされています。

建物そのものは残っていません。しかし、発掘で姿を現した櫓台石垣と史料に残る三層櫓の記録を重ね合わせると、原城が天守に相当する建物を備えた本格的な近世城郭だったことが見えてきます。

発掘復元された原城跡の本丸櫓台跡(天守台跡)
本丸西側に復元整備された櫓台石垣。塁線から外へ張出した配置には、櫓から側面方向へ攻撃する「横矢」を意識した可能性も考えられます。

夕陽に朱く照らされた本丸跡

かつて、多くの人の血が戦いで流されていたことが歴史に刻まれている、本丸に立ちました。まるでそんなことが無かったかのように静かです。
本丸奥まで行くと、今日も穏やかな有明の海を眼下に、遠く熊本まで見渡すことができます。

城内の至る所に、死者を弔うような石造物を見かけました。
この観光客もまばらとなった夕方の静かな本丸の姿と有明海の情景は、この地で命を落とした人々の魂を慰めているようでした。

本丸と二の丸を隔てる堀切
本丸から有明海。対岸の熊本方面を見る