白亜の天守が黒くなった?—改修前後の写真で見る福山城

復興・模擬天守

この記事では、改修前後の写真を比較しながら、福山城天守の外観がどのように変わったのか、南北で異なる姿とともに紹介します。


今回の旅では早朝の訪問だったため、天守内部には入館せず、改修された外観を四方から観察します。


福山城はこんな人におすすめの城
・初心者:★★★★★(見どころのある多様な建築群(天守・櫓・門)が多い)
・アクセス:★★★★★(JR福山駅に隣接)
・体力:★★★★☆(平山城区分だが標高低く直ぐに本丸へ到達)
・混雑:★★★★☆(数度か訪問経験あるが、他の著名な城と比べ訪問者少ない)
福山城は、現存天守ではありませんが、近年改修されて天守の復元度が高くなり、国重要文化財の伏見櫓などの現存建築を見ることもできます。また、福山駅に隣接しているのでアクセスが抜群で、駅から本丸への石段を登ると、上り坂が延々と続くこともありません。時間と体力を効率的に使い、美しい天守を眺めたい人に最適な城です。

福山城基本情報

所在地福山市丸之内一丁目8番
築城元和5年(1619年)~元和8年(1622年)
天守5重5階地下1階(1622年築、戦災焼失)
(1966年RC造復興)
天守入館料一般 500円 高校生以下無料 各種割引あり 
開館時間 9: 00~17: 00(最終入館時間は16:30)
休館日 月曜(祝日の場合翌日)年末(12月28日~12月31日)      注)2026.7.25時点 福山城博物館HP参照
見学時間60分程度
駐車場福山城博物館駐車場(普29台) 他

福山駅から始まる早朝の城歩き

私は東海道・山陽新幹線の駅ホームや線路から見える城の中で、最も見栄えが良い城の一つは、福山城ではないでしょうか。

福山城は、新幹線側の福山駅北口から道を隔てて、城内に入れます。城好き旅行者にとっては、最も時間効率の良い名城です。
今回の旅では、まだ観光客のいない早朝の朝日を浴びる改修天守を見たくて福山城を訪れました。

東側より登る朝日に照らされた福山城天守を下から見上げます。福山城は市街地にあり平城の印象でしたが、写真からも標高差がある平山城であることが分かります。

早朝の福山城は訪れる人も少なく、観光客を気にせず撮影が進みました。それにしても、新しく塗り直されたばかりの白壁に朝日の赤が美しく映え、人のいない天守の四方も落ち着いて観察することができました。

福山城天守は令和の改修でどう変わったのか

福山城天守は1622年(元和8年)に竣工した城です。1615年の(慶長20年)の一国一城令を幕府が発布した後の新規築城で、近世城郭では最後の大規模城郭として築城されています。

この天守は昭和まで残り戦前の国宝に指定されていましたが、戦災により焼失しています。
この天守は、焼失から約21年後の1966年(昭和41年)に鉄筋コンクリート造で再建されました。当時は現在ほど資料研究や復元手法が整っておらず、外観の一部には戦災前と異なる意匠が採用されました。

「再建天守の復元度を徹底検証|資料と現地比較で評価する」はこちらへ

全体の景観が良く見えるように改修後は天守前の大きな樹木を外していることが分かります。

どこが変わった天守の姿

同じ建物の外観改修なので、大きさや高さは同じです。しかし、改修後の方が引き締まった外観で見えるのはなぜでしょうか。
① 最上階の高欄
改修前は朱塗りの高欄でしたが、改修後は黒塗です。戦災焼失前の天守の高欄は廊下(廻縁)ごと全てを雨除けの板戸で覆っていました。古写真を見ても正直あまり格好の良い姿ではありません。戦災復興で天守を再建する際に、戦災前と異なる朱塗りの高欄が設けられていました。令和の改修では黒色の高欄に改められています。
② 五重目の柱が黒く塗られている
姫路城と同様に、福山城天守は白漆喰総塗籠で白亜の天守を演出していますが、最上階だけ真壁造りとして柱を露出させています。これは、天守の格式の高さを表すためですが、令和の改修では柱を黒塗りにして真壁造りであることを強調しています。改修後の天守に引き締まった威厳を感じるのは、私だけではないと思います。
③ 最上階の壁面(華頭窓や板戸)の正確な復元
改修前の五重目妻面の華頭窓は、廻り縁の出入口位置と見栄えを考慮して2箇所つけられていましたが、本来あった位置に1箇所にされて復元度を上げています。
④ 各階の窓部の木造部分も黒く塗られている。
全体的に、白亜の天守でありながら壁面窓の木材に黒く彩色することで、引き締まった外観になり全体的な格式が高く感じられるようになっています。

窓枠や最上階柱の白木部分が黒く彩色されて、くっきり見えるようになり、見た目の印象がスマートな天守になっています。

東・西・南側から見る白亜の五重天守

福山城天守は、見る方向によって破風や付櫓の重なり方が変わります。ここからは天守の周囲を歩き、四方からその姿を見比べます。

福山城天守は、天守様式が完成された時代に造られたもので、破風や外観の美しさは、姫路城や名古屋城に劣らないものがあります。
朝日が、天守を照らすうちに夢中で周囲を歩いて撮影を続けました。

東南面の天守

改修で塗りなおされた白壁に朝日が注がれています。また、正面からは余り目立たない二重の小天守も、この位置からはしっかり大天守と連結していることが分かります。


西南面からの天守

福山城天守は、江戸時代初期の代表的な天守で、この時代に特徴的な千鳥破風や唐破風を多用しています。意匠面では破風の配置に規則性を持ち、三重目と四重目屋根では妻側と平側で千鳥破風と唐破風を交互に配し、初重と二重の屋根では千鳥破風のみの配置ながらも、妻側と平側で数に違いをつけて(一つ又は二つ)バランスの良い外観を実現しています。

南面からの天守

本丸正面からの天守。譜代大名とはいえ10万石の石高で格式高い外観5重の天守を見ることができます。天守の入り口も南面側からです。

東面からの天守

天守側面とはなりますが、屋根には多くの破風を付けて華やかです。正面からは、あまり目立たない付櫓(小天守)も堂々たる姿を見せ存在感を示しています。

西面からの天守

天守西面は松の巨木により、完全な姿を撮影できません。天守の階高が大きくその上部は1階の白壁に窓を開いて明かりを取っているので、あたかも1重目が2階分あるように見えます。

北側に回ると現れる黒い鉄板張りの天守の姿

福山城天守は、見る方向によって破風や付櫓(小天守)の重なり方が変わります。
ここからは、天守の周囲を歩き、四方からその姿を見比べます。

南側から見た華麗な姿とは一変し、北側には黒い鉄板が壁面を覆っています。

白亜の天守であった他の方向と全く趣を異にする天守北側の姿です。写真のように、あまり高いとは言えない本丸北端の石垣と天守台の石垣が近く、素人目に見ても南側の防備とは格差が大きいように感じられます。

なぜ、北面だけが黒いのか

1622年に建造された(元和8年)大天守は、層塔型の5重5階地下1階・小天守は層塔型2重2階地下1階の規模でした。天守の南側は天守の2重目の屋根と一体化した2重の付庇が備わり、その東側には付庇に連続した2重の小天守が接続しています。福山城は北側に山並みが迫っており、防備上では弱点となっていました。そこで、弱点とされる天守の北面は火砲の砲撃への対策として薄い鉄板を重ねるように壁面へ張っていました。このため北側から見た天守は壁面が真っ黒に見え、南側からの白亜の天守と全く印象の違うものになっています。

福山城天守の壁面を撮影。左側(北面)が鉄板張りで、右側(西側)の白漆喰の壁面と対照的です。

ここからは私なりの考察ですが、鉄板張りの背景には大坂の陣で示された大砲の威力も影響したのではないでしょうか。
大坂城は天守が竣工した1585年(天正13年)当時、天下無双といわれ、難攻不落の要塞でした。しかし1615年の大坂冬の陣における籠城戦では本丸や天守への大砲攻撃が攻城の有力手段となり、特に外国から購入した大砲が天守に直撃したことで戦局に明らかな影響が生じました。

水野勝成は大坂の陣に参戦し、大砲が城の本丸や天守を直接脅かす時代の到来を目撃してしまいました。福山城の北側には山が迫り、そこを敵に占拠されれば天守が砲撃を受ける危険があります。

実際に幕末では、新政府軍が城の北側から砲撃を行い、焼失前の天守には弾痕残ったとも伝わります。北面の鉄板張りは、単なる外観上の装飾ではなく、城の弱点を補う実用的な備えだったと考えられます。

写真は大坂城天守から、城下で本丸に最も近い北東側の様子を俯瞰します。淀川の備前島に配された田付流砲術の田付景澄が放った外国製大砲が大坂城天守に直撃したことで講和の機運が高まったとされています。いかに石垣を高く堀を深くしても、秀吉築城時には想定されなかった大砲の砲弾が本丸天守を攻撃の目標として放たれるのです。
天守背後に天神山などの丘が迫っているため、この山を占拠され大砲を撃ちかけられると甚大な被害が予想されます。天守北面の守りには土塀と本丸周囲は多門櫓が囲っていましたが、南側(福山駅側)と比べると縄張り面で防御の奥行きがまるで違うことに驚かされます。

復興天守も進化する

戦災で焼失し、戦後に復興された天守は、昭和30年代から50年代の高度経済成長期に観光目的で鉄筋コンクリート造で建造されたものが多く残っています。
これらの復興天守は、老朽化の問題に直面したものが多いのですが、年月の経過とともに都市のシンボルとして地元市民に愛される存在となっているのも事実です。
近年は、老朽化した天守をリニューアルする城郭が見られるようになり、その改修の際に、記録や古写真などで外観が判明するものを、かつての外観に近づけていく努力を関係者が行うようになりました。

福山城も、戦前の天守に近い外観で私たちの前に現れています。
かつての訪問で朱色の高欄と多彩な破風で瀟洒な美しさを備えていた天守は、令和の改修にり白と黒の対比を得て、力強さを得た若武者のような雰囲気を漂わせているようです。

しかし、福山城には研究成果によって姿を改めた復興天守だけではなく、江戸初期から残る現存の城郭建築も残っています。

復興天守を見守る ― 伏見櫓

伏見櫓は福山駅の新幹線ホーム(写真左)から至近の距離で見ることができます。駅を出ると本丸の入場口に向かいますが、ここは伏見城遺構の筋鉄御門が敵方の進入を防ぎ、門の脇に位置する伏見櫓が攻撃を加える守りになっています。

福山城伏見櫓とは

福山城は、外様大名が西国に並ぶ中で譜代大名の水野勝成に築かせた城です。このため、当時の最新式の五重天守を建てるとともに、幕府の協力を得て、かつての天下人の居城にもなり廃城とされた伏見城の櫓を拝領して、徳川方の威光を示しています。

福山城伏見櫓は、3重3階の大型櫓で、2階の梁に「松ノ丸ノ東やく(ら)」の刻銘があり、各地に移築が伝承されている伏見櫓の中では、確実に伏見城からの移築が裏付けられた極めて貴重な現存建築です。

なお、現在も福山市は伏見櫓の移築元や建築年代について、さらに詳しい調査を進めています。伏見城からの移築自体は裏付けられていますが、伏見城での正確な位置や建築年代には、なお研究の余地があります。

伏見櫓は1階と2階は細長い平面で3階は屋根を直行させて望楼を載せた形式の初期天守の様式を想像させるような外観をしています。
このため正面から見ると大きく堂々と見え、側面から見ると細くスマートに見えるため全く別の建物に見えました。

伏見櫓は、正面(平側)が8間、側面(妻側)が4間半の1階平面で細長い形状をしています。このため、写真の位置から見るとまるで別の建物のようです。

1階と2階の壁面をみると、柱や木材を露出させた真壁造りになっています。伏見城を描いたいくつかの「洛中洛外図」では天守や櫓は格式が高い真壁造りで描かれています。失われた伏見城の天守や櫓が真壁造りであったことを、絵画ではなく福山城では実際に確認することができるのです。

伏見櫓が守っている城門は、本丸の正門である筋鉄御門です。これも伏見城の移築とされており、柱を露出させた真壁造りで作られています。

まとめ―復興天守と現存建築が並ぶ福山城

福山城の魅力は、黒い鉄板張りを取り戻した復興天守ばかりではありません。天守を目指す本丸の入り口には伏見城から移され、四百年を超えて残った伏見櫓と筋鉄御門が建っています。
福山城を見る醍醐味は、広大な本丸の中で、新しく甦った五重天守と、本物の希少な歴史建築を同時に見比べられることです。